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カサゴ

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 柏木が頭を掻いた。その横で功一はほくそ笑んでいた。
「ま、おたくのところは係長さんがしっかりしているようですので、係長さんに任せておいてはどうでしょうか?」
「は、はあ……」
 こうして病状調査は主治医が主導権を握ったまま終了した。
 診察室を出て、待合で柏木がボソッと言った。
「神崎、お前、先生に入れ知恵しやがったな」
「課長がデリカシー、無さ過ぎるんじゃないでしょうか?」
 すると、柏木は「けっ、病人を出すと俺の査定に響くんだよ」と悪態をついて、功一に手も振らず、そのまま帰っていった。功一は恨みの篭った視線で課長の背中を追った。

「ただいま」
「ああ、お帰りなさい」
 アパートに帰った功一をこずえは笑顔で迎えてくれた。だが、こずえは少し不安な顔に戻った。そして、功一に抱きついてきた。
「朝、起きたら隣に功一がいないんだもん……」
「ごめんよ。ゆっくり寝かせてあげたかったんだ」
 功一はこずえをギュッと抱きしめた。
「ふふ、昨夜はちょっと飲みすぎちゃったね。で、どうだったの、課長の同席受診は?」
「まあ、上手くいったよ。こっちのペースさ」
「ねえ、キスして……」
 二人が瞳を閉じた。功一は思う。キスはいつまでも新鮮なままだ。そう、秦野の精神病院で交わしたあの時から少しも色褪せない。こずえの唇の感触は功一にとって心地よい場所だった。
 ゆっくりと唇が離れた。そして、こずえと功一は見つめ合う。再度、きつい抱擁をする二人。今のこずえと功一には、この狭いアパートこそが愛の棲家だった。
「そうだ。たまには音楽を聴こう」
 功一がCDを取り出す。それは鈴木慶江というオペラ歌手の「フィオーレ」というCDだった。別に功一がオペラのファンというわけではない。CMで聴いた彼女の歌声に魅了され、このCDを購入したのだ。
 安物のコンポは光沢を放つCDを呑み込んでいった。そして、優雅な前奏に続き、艶やかで伸びのあるソプラノが流れる。マルティーニの「愛の喜び」だ。
「美しい歌声……」
 ベッドに潜り込んでいたこずえが呟いた。功一は雨戸を閉めた。密室になった空間は、二人が「愛の喜び」を謳歌するに相応しい。
 功一がベッドに潜り込んだ時、CDは二曲目、ヘンデルの「私を泣かせて下さい」を演奏していた。美しい旋律にこずえの心が共鳴したのだろうか。こずえの瞳は潤んでいた。
「ああ、こずえ……!」
「功一……!」
 二人は美しい調べと歌声に酔いしれるが如く、お互いの愛を確かめ合っていた。

 翌朝、功一はこずえと共に家を出た。功一はリハビリ勤務、そして、こずえは実家に帰り昌子と一緒に喜久雄のお見舞いに行くという。
 功一は電車に揺られながら、昨日の日中に愛し合ったこずえの肌の質感を思い出していた。
(こずえがいる限り、俺は大丈夫さ!)
 心の中でそう呟くと、不思議と出勤も苦にならないと思う功一であった。
 その日も功一は調査物の発送などの雑務をこなしていた。ふと気付くと、渡辺が背後に立っていた。
「お茶でもどうだ?」
 渡辺は給湯室の方を指差す。功一はニンマリと笑い、「はい」と頷いた。
「実は人事課から正式なリハビリ勤務の打診があったらしいんだ。神埼としてはどうだ?」
「やれると思います」
「今までは自主リハビリだから好きなように休めたが、正式なリハビリ勤務となると、そうは休めなくなるぞ。計画に沿って順調にこなすのが条件になる」
 渡辺はお茶を啜りながら、功一の顔を覗き込んだ。
「是非、やらせてください。でも担当は係長から変更ないんですよね?」
「うむ。リハビリ勤務の責任者は課長なんだが、やる気はないらしい。引き続き、お前の面倒は俺が見るよ」
「ありがとうございます」
 功一ははにかみながら、渡辺に頭を下げた。
「ところで、釣りの件なんだが、彼女も参加できるのか?」
「はい。喜んでいました」
「そうか、そうか……。カサゴは水温次第だが、イシモチは釣れると思うぞ。彼女にイシモチの美味さ、教えてやれ」
「こずえはカサゴを楽しみにしていますよ。カサゴ釣りが好きなんですよ。あの新健丸から夏にカサゴ釣りに行きましてね。ほら、この携帯電話の待ち受け、見てください」
 功一は携帯電話を渡辺に翳した。そこの待ち受け画面には大きなカサゴを持って笑っているこずえが写っている。
「なるほどな。こんなのを釣ったんじゃ、病み付きになるわな」
「ところで船は仕立てですか?」
「もちろんだ。当日は竿鱗会のメンバーで貸切だ。乗合じゃないし、気を遣わなくていいぞ」
 渡辺はニンマリと笑い、席へ戻っていった。その背中は凛としていた。

 それからというもの、功一は正式にリハビリ勤務を開始した。こずえとの同棲生活も続き、喜久雄も徐々にではあるが、記憶を取り戻しつつあった。もう、功一のことを「誰だ?」とは聞かない。喜久雄は過酷なリハビリにも耐え、そこそこまで身体機能が回復していた。
 年の瀬も迫ったクリスマスイブの日、こずえと功一は教会に行った。聖歌隊によるクリスマスソングを聴きに行ったのである。その教会は秦野市の渋沢にあった。実は功一とこずえはこの教会で結婚式を挙げたいと思っていた。兼ねてより下見をしておいたのだ。別にこずえも功一もクリスチャンではなかったが、ホテルなどに設置された教会はビジネスライクだったし、ホテルで立派な式を挙げるほど、予算も無かった。この教会は待ちの中にある素朴な教会で、二人とも気に入っていた。功一は小さい頃、この教会のバザーに母親と一緒に来たことがあり、知っていたのだ。
 牧師は温厚な人柄で知られており、日曜日の礼拝となると、賛美歌が美しく流れてくる。この教会は功一の実家からも程近い。
 聖歌隊の歌は素晴らしかった。それに荘厳な雰囲気が教会を包み込み、聖夜を祝福していた。
 こずえも功一も満たされた気持ちで教会を後にした。
 渋沢から小田急線に乗って、二人は本厚木まで帰ってきた。今日は厚木市役所の裏手にある「グラッパ」というイタリアンレストランの予約を取っていた功一であった。「グラッパ」は本格的なイタリアンを提供する店で、ワインも豊富だ。この店は今日のために功一が見つけた店であった。
「メリークリスマス!」
 ワイングラスがカチンと鳴った。
「こずえに渡したいものがあるんだ」
「えっ、何?」
 功一がバッグを弄る。そして、小さな包みを取り出した。それをこずえに渡す。
 こずえは少しはにかんだような表情をして、包みを開けた。
「わー!」
「俺からの婚約指輪だよ」
 それはダイヤモンドが散りばめられた美しい指輪だった。
「こずえのお父さんが退院したら、結婚しよう。俺も正式にリハビリ勤務を始めているし、このまま復職できれば生活は安定する」
「うん」
 こずえは早速、指にリングを嵌めた。
「どう、似合う?」
「こずえにぴったりだよ」
「高かったんじゃないの?」
「まだ貯金はあるさ」
「で、結婚式なんだけど、今日行った教会でいいだろう?」
「うん。あそこがいいな。何かアットホームな感じ」
「こずえは友達とか呼ぶの?」
「私はアダルトビデオの仕事してから友達とは疎遠になっちゃったから、親戚が数名来るくらいかな」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸