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カサゴ

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 翌日、半日勤務を終えた功一は、実家からアパートへと向かった。主治医には内緒にしてあるが、今日はこずえと飲みに行く予定だった。明日の水曜日は午前中に受診があり、休みを貰っていた。だから、少しくらい飲んでも大丈夫だろうと功一は踏んでいたのだ。そもそも飲みに行こうと言い出したのはこずえであった。精神病院への入院で相当ストレスが溜まっているのだろうと功一は思った。功一も翌日の受診に柏木課長が同席するのかと思うと気が重かった。少し、酒に酔いたい気分だった。
 こずえと功一が向かった先は、功一のアパートからも程近い居酒屋「一希」であった。常連客で賑わうこの居酒屋は功一がお気に入りの店だ。カウンター席から奥座敷まで満席になることも珍しくはない。功一は電話でカウンター席を予約しておいた。
「いらっしゃい!」
 店の中は常連客でごった返していたが、こずえと功一のためにカウンターにぽっかりと席が残されていた。二人はそこへ座る。
「こずえ、ホッピー、飲むかい?」
「うん、ホッピーがいい」
 店員が飲み物の注文を聞いてきた。功一は焼酎のボトルとホッピーを二本、注文した。
 焼酎とホッピーが運ばれてきたところで、肴をオーダーする。刺身の盛り合わせと、厚揚げのチャンプル、大根サラダ、手羽先ギョーザ、馬刺しを取り敢えず注文した。
 功一はこずえのホッピーを作ってやった。焼酎の量はちょっとばかり多めである。そこへ氷を落とし、ホッピーを注ぐ。マドラーで掻き混ぜれば、ホッピーの出来上がりである。
 二人はグラスをカチンと鳴らした。
「入院生活、お疲れさん」
「ああ、久々にお酒を飲むわ」
 こずえが悦に浸った表情でホッピーを啜った。
「俺も医者からは週に一回、ビール一本って言われているんだけどね」
 功一は苦笑した。昨夜も缶ビールを一本、空けたのだ。
 そこへ刺身の盛り合わせと馬刺し、そして大根サラダが運ばれてきた。
「随分と立派なお刺身ね。分厚い……」
「そうだろう? 見たくれはそんなに良くないが、ここの刺身は分厚くて新鮮だよ。大根サラダも上にポテトチップスが散らばしてあるんだ。さあ、今日は飲むぞ!」
「功一、随分と気合いが入っているのね」
「明日、受診に嫌な課長が同席するんだ」
 功一がマグロの刺身を頬張りながら、ややもすると卑屈に笑った。
「課長ってそんなに嫌な奴なの?」
「まあね……。どこにでもいると思うんだけど、そういう奴って……。でも、係長が良い人で助かっているよ」
「そうなんだ……」
 こずえは大根サラダを上品に口へ運ぶ。
「その係長から、また釣りのお誘いを受けたんだ。市の職員の沖釣り同好会で『竿鱗会』っていうのがあって、来月そこに参加させてもらうことになったんだ。それがどこだと思う? あの新健丸さ。どうだい、こずえも一緒にカサゴを釣らないか?」
「えー、本当に? でも、私なんかが参加しちゃっていいの?」
「係長が幹事でね。許可は取ってあるんだ。俺もこずえと一緒に行きたくてさ」
「私、行く行く!」
 こずえが功一に腕を絡めてきた。

 翌朝、目を覚ました時、功一は割れるような頭痛に襲われた。
「昨日はちょっと飲みすぎたかな……」
 昨夜、結局こずえと二人で焼酎のボトルを空にした功一であった。こずえはまだベッドで安らかな寝息を立てていた。
「あー、昨夜は薬も飲まずに寝ちゃったよー」
 昨夜の寝る間際、こずえが抱きついてきた記憶が功一にはある。だが、酒を飲みすぎてこずえを抱く気力さえも失せていたような気がする。功一は吉田拓郎の「旅の宿」のワンフレーズを思い返して、苦笑した。
「さてと……」
 水を一杯飲み乾した功一は着替えた。こずえはそのまま寝かせておくことにした。セミダブルのベッドは二人で寝るにはちょっと狭く、昨夜は浅眠気味の功一であった。
 功一は台所で目玉焼きを二つ焼くと、二つの皿に載せた。そして、食パンを焼く。
 軽く朝食を済ますと、功一はこずえにメモを残して家を後にした。出間際に寝言でこずえが「功一……」と囁いた。功一の口元がフッと緩んだ。

 病院の待合では既に課長の柏木がデンと座って雑誌を読んでいた。功一は「今日はよろしくお願いします」と声を掛けたが、柏木は「ああ」と言ったのみで、すぐ雑誌に目を落とした。気まずい時間が流れた。
 自分の名前が呼ばれ、柏木と一緒に診察室に入った功一は主治医に「こちらが課長です。今日は先生にお伺いしたいことがあるそうで」と柏木を紹介した。柏木は名刺を差し出し、功一と並んで座った。
「どうですか、神崎さん、最近の調子は?」
 主治医はにこやかに話しかけてきた。
「まあボチボチといった感じですね。何せプライベートで慌しいことが多くて……」
 功一は頭を掻きながら、照れたようにそう答えた。
「そうですか。通勤練習は続けていらっしゃる?」
「ええ、もう半日勤務のリハビリに入っています」
「ほう。で、苦しくありませんか?」
「今のところ大丈夫です」
「ふーむ……」
 主治医はカルテに何か書き込んでいる。功一は固唾を呑んでそれを見守った。柏木は貧乏ゆすりを始めている。
「では、課長さん。職場での神崎さんの様子はどうですか?」
「神崎君の処遇は係長に任せてあるので……。まあ、それなりにやっているようですよ」
 柏木は憮然とした顔で、そう言った。
「課長さん、上司として神崎さんをどう見られているんですか?」
 いささか険しい目つきで主治医が柏木に詰め寄った。
「それは、そのー……。まあ、良くやってくれていると……。ただ、私が見てきたうつ病と彼の病気はちょっと違うと思いまして……。大体、みんな一ヶ月から三ヶ月の間に復帰してくるんですけどねぇ。彼の場合は……」
「うつ病は人によって症状が異なります。そういうステレオタイプ的な見方は良くないですよ」
「ああ、はい」
 柏木は主治医の言葉に気圧されるように頷いた。
「神崎さんは満身創痍で入院に至ったんですよ。その責任の一端は上司であるあなたにあるんじゃないですか?」
 実は功一は柏木のパワハラや病気への無関心についても逐一、主治医に報告していた。であるからして、主治医の柏木に対する評価は如何ほどのものがあっただろうか。
「いいですか。うつ病は心の病などと言われていますが、立派な脳の病気なんです。それに理解を示してもらわないと困りますな。神崎さんの場合は重症でしたからね。回復にもそれなりに時間がかかるというわけですよ。うつ病の回復というのは一気に回復していくわけではないんです。良くなったり悪くなったりを繰り返して徐々に良くなっていくんだす。神崎さんの場合は良い状態が比較的長く続いているとは思いますが、まだ完治しているとは言えません」
「はあ」
 柏木の態度は煮え切らないものであった。
「で、先生……。復帰はいつくらいを目途に……」
「まだリハビリ勤務を始めたばかりでしょう。計画はゆっくりと組んであげてください。でないと、病状の悪化の危険もありますよ」
 主治医は続けた。
「本来、神崎さんの病気は労災ものですよ」
 主治医のその言葉に柏木の肩がビクッと跳ねた。
「労災かぁ……。労災はまずいなぁ」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸