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カサゴ

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「特別参加ってことにしておいてやるよ」
 渡辺が愉快そうに笑い、功一の肩を叩いた。
「すみません。もう一人、誘いたい人がいるんですが……」
「ん、誰だ?」
「実はこれなんです」
 功一が小指を立てて、はにかむように笑った。渡辺は「わはははは!」と豪快に笑いながら、「よしよし」と頷いた。

 その晩は喜久雄のお見舞いから帰ってきたこずえと昌子とで、功一は夕飯を一緒に食べた。
「功一さん、半日勤務のリハビリをしているんですって?」
 昌子がにこやかに尋ねた。
「ええ、今日からなんです」
 功一が照れくさそうに笑った。
「これでお父さんの意識が戻ってくれたらねぇ……。私、あの人がこのまま植物人間になってしまうんじゃないかって、心配なのよ」
「お母さん、物事は悪い方へ考えちゃダメだよ。お父さんはきっと良くなるわ」
 こずえが箸を震わせながら、そう言った。こずえも不安なのだ。それはこずえが退院した日、こずえを抱きながら功一が思ったことでもある。
 こずえは「うん」と頷きながら、ご飯を口に運んだ。
 その時だった。急にこずえの家の電話が鳴った。昌子が急いで電話に向かい、受話器を持ち上げる。
「はい、野原ですけど……、ええ、はい……。えっ、主人の意識が戻ったんですか?」
 昌子のその声を聞いて、こずえと功一は顔を見合わせた。その顔はほころんでいる。
 功一はポケットを弄ると車のキーを取り出した。

 ベッドの上で喜久雄は目を開けていた。もう、人工呼吸器は外れていた。そして、横には主治医がついている。
 昌子、こずえ、そして功一が病室に入ると、喜久雄は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「ああ、お前、こずえ……」
「あなた!」
「お父さん!」
 昌子とこずえが叫んだ。二人の瞳は潤んでいる。
「俺は入院していたのか?」
「あなた、覚えていないんですか? くも膜下出血で入院して、大手術をして、ずっと意識が戻らなかったのよ」
「そうか……。ところで、そちらの方は?」
 喜久雄が功一を見た。昌子もこずえも「何で?」というような顔をしている。
「功一さんですよ。ほら、こずえと付き合っている……」
「こずえと?」
 喜久雄は呆気に取られたような顔をし、口をポカーンと開けていた。
「手術の後遺症で最近の記憶がないんです。でも、心配要りません。徐々に戻りますから」
 主治医が淡々と説明をした。
「最近の記憶がない?」
 昌子とこずえは口に手を当て、驚愕した。
「脳にメスを入れた場合、よくあることです。それよりも心配なのは、やはり左半身に麻痺が残りましたね。まあ、もう少し入院してリハビリに励むことが大切でしょうな」
 主治医は「そこそこ満足だ」というような顔をして、喜久雄の顔を覗き込んだ。
「こずえはもう、高校を卒業したのか?」
 喜久雄がこずえの方を向いた。こずえは動揺を隠せずに「もうとっくよ」と言った。
「あなた、本当に覚えていないの?」
 昌子が喜久雄に縋りつく。功一は黙ってその様を見ていた。功一は知っていた。脳にメスを入れた場合、記憶を失うことがあることを。
「ああ、こんなところに入院している場合じゃないな。早く会社に行かないと……」
「焦ることはないわよ。ゆっくりリハビリして頂戴。それに、もうすぐ定年じゃない」
 昌子が困惑したように言った。
「定年? 俺がか?」
 どうやら喜久雄の記憶はこずえが高校生だった時代で止まっているらしい。
「うーん……、頭が痛い」
「大丈夫? あなた……」
「少し休ませてくれ……」
「わかりました。私たちはこれで帰ります。明日、また来ますからね」
 昌子はそっと喜久雄の手を握った。それは夫婦の愛が篭った仕草だった。するとこずえが駆け寄り、喜久雄にしがみ付いた。
「お父さんは私の本当のお父さんだよ! だから、早く元気になって!」
「こずえ……」
 こずえが喜久雄の頬を撫でた。喜久雄の視線は二度のリストカットの痕に向いている。
「こずえ、どうしたんだ、その傷……」
 こずえがハッとして、飛び退いた。そして左の手首を隠す。
「嫌だ、お父さん、本当に覚えていないの?」
「ああ、頭の中がゴチャゴチャだ!」
 喜久雄が右手で頭を掻いた。頭頂には痛々しい手術痕がある。
 功一はこずえの手をそっと引いた。功一の目は「今はそっとしておいてあげなさい」と言っていた。
 喜久雄は苦悶の表情をしていた。頭の中が混乱しているのだろう。記憶が途絶えていれば当然である。
 昌子、こずえ、功一は後ろ髪を惹かれる思いで、病室を後にした。その後ろに主治医が続いた。
「やっとここまで回復しましたね。でも、これからですよ、本当の闘いは……」
 主治医がやや険しい表情で言った。
「これから……ですか?」
「ええ、記憶は徐々に戻ると思うんですが、左半身に麻痺が残りましたからね。リハビリは辛いものになるでしょう」
「そうですか……。主人はあと二ヶ月で定年退職なんです。それまでに復帰できるかどうか……」
 昌子は落胆したような表情で俯いた。
「こればかりは仕方ありませんな。まあ、なるべく早く復帰できるよう、我々もサポートしますよ」
 主治医はそう言うと、足早に去っていった。昌子は恨めしげな視線を主治医の背中に投げかけた。それが筋違いということは昌子もわかってはいる。だが、夫の現状を受け入れるにはまだ時間が必要だった。
 帰りの車の中で昌子はむせび泣いていた。
「こずえ、今夜はお母さんについていてあげなよ」
 赤信号の時、功一は助手席に座るこずえに、そっと耳打ちをした。こずえは俯きながら小さく頷いた。

 その日の晩、功一は実家に帰った。
「功一が何日か家に寄り付かなかったから水槽のカサゴが可哀想だぞ」
 既に酒の回った父の鉄夫が、冗談半分で言った。
「今日はちょっと飲みたいな」
「明日も仕事じゃないのか?」
「ああ、こずえのお父さんの意識が戻ったんだ」
「そりゃ、めでたいじゃないか」
「でも、記憶が戻らないんだ。俺のこともすっかり忘れている」
「そうか……」
 鉄夫が冷蔵庫から缶ビールを取り出してきた。功一はそれを受け取ると、プシュッとプルトップを開けた。
「まあ、それでも意識が戻っただけいいじゃないか」
「まあね……。でも、こずえが高校の時代で記憶がストップしちゃっていてさ。結婚を許してくれるかな? それにこれから大変なリハビリをしなきゃならないらしいんだ」
「急いては事を仕損じる……。焦らずいけ……。で、どうなんだ、同棲生活は?」
「うん。順調な滑り出しさ。今日はこずえのお母さんがショック受けていてさ。こずえは家へ帰ったよ。俺もこの家が恋しいしね」
 功一がビールをグーッと飲み乾した。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。で、リハビリ勤務は?」
「ああ、今日から半日勤務さ。まあ、この分なら何とかやれそうだよ」
「そりゃ、何よりだ」
 功一は空になったビールを台所で濯ぐと、二階にある自分の部屋へ向かった。明日、仕事から帰ったら餌を買ってきてカサゴに与えようと思っている功一であった。
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸