カサゴ
こずえの瞳が潤んでいた。それは退院の喜びと、喜久雄の具合を心配する不安が混在しているのだろうと功一は推測する。そんなこずえの肩を功一は抱き寄せた。
「ねえ、私が退院したら、功一のアパートで同棲してもいい?」
「え?」
「確かにお父さんが大変な時期なんだけど、私、功一と一緒に暮らしたいな」
「俺はいいけど、お母さんが何て言うかな?」
功一は照れたように頭を掻いた。
「大丈夫、大丈夫。功一のアパートからうちは近いし、ちょくちょくはうちに帰るから」
こずえはあっけらかんと笑い、そう言った。だが、まだ瞳は潤んでいた。
功一はフッと笑い、こずえを見つめた。
「同棲ですって?」
昌子は素っ頓狂な声を上げた。こずえが退院し、こずえの実家でのことである。こずえが「功一と同棲する」と昌子に告げたのだ。功一は少しバツが悪そうに頭を掻いている。
「ねえ、お母さん、いいでしょう?」
「でもね、お父さんがまだ意識が戻っていなくて、大変なのよ。できればこずえには家にいて欲しいわ」
「功一のアパートはすぐそこよ。家にはちょくちょく戻るから。お父さんやお母さんにはすごく心配と迷惑を掛けたけど、やっと掴みかけた幸せなのよ。ね、いいでしょ?」
こずえが両手を合わせ、拝むように昌子を見つめた。
「私からもお願いします。お父さんのお見舞いやいろいろ手伝いには協力しますので……」
功一が頭を下げた。昌子は「ふう」とため息をつきながら、視線を床の畳に落とした。
「まあねえ、あなた達の好きなようにして頂戴。こずえもこの間まで根無し草みたいだったけど、ようやく落ち着けたんだものね。でも、お母さんはちょっと寂しいかな」
「お母さん……、ごめんなさい……。私……、幸せになるから……。お父さんが退院して、功一が復職したら結婚するから……」
こずえが言葉を選ぶように呟いた。
「わかったわ。お前が幸せになるのがお父さんにとっても一番良い薬だよ」
昌子が慈悲深い微笑を湛えて、そう言った。
「ありがとうございます」
こずえと功一は一緒に頭を下げた。
「それより、こずえ。お前、まだお父さんのお見舞いに行っていないだろう」
「そうね、手術の時も途中で抜けなきゃならなかったもんね」
こずえがにっこり笑った。
「これから、お父さんのところへ行きましょうよ」
功一が車のキーを手に取った。
「うん、私、お見舞いに行きたい」
「そうは言ってもね。寝たきりで、まだ意識も戻っていないんだよ」
「だからこそ、行きたいんじゃない」
こずえがむくれたように頬を膨らました。
こうしてこずえと昌子と功一は連れ立って、喜久雄の入院している東海大学病院へ向かったのである。
喜久雄はベッドに横たわり、酸素吸入を口につけていた。そして、腕には点滴がつながれている。
「お父さん! こずえよ。目を覚まして!」
こずえは喜久雄の身体にしがみ付いた。だが、空しく酸素吸入器の音がプシューと鳴るだけだ。
「手術が終わってから、もうずっとこの状態なのよ。会社には連絡しなきゃならないし、オムツとかも買って届けないといけないし……。私はもうパニックよ」
昌子が頭を抱えた。
「お父さん、ごめんなさい。私、心配掛けすぎたね。お父さんはどんなことがあったって、私のお父さんだからね……」
こずえは喜久雄に縋り付きながら、ボロボロと大粒の涙をこぼす。喜久雄は安らかな顔で眠っていた。
昌子を家へ送ってから、こずえは功一のアパートに来た。
「久々ね。功一のアパートに来るのも……」
同棲生活を前提に功一はアパートの整理整頓は欠かさなかった。その綺麗な室内をこずえはグルリと見回す。
「へえー、綺麗に片付けてるじゃん……」
「まあね。これから二人で生活するから掃除はしておいたよ」
功一が苦笑した。
「ところで、功一のご両親は同棲には反対していないの?」
「呆れて、『好きにしろ』だってさ……」
功一は自虐的に笑った。こずえがベッドに腰を下ろす。
功一はオーディオラックから一枚のDVDを取り出す。それを見てこずえが「あっ!」と叫んだ。功一が以前、レンタルビデオ店で廉価で購入したこずえのアダルトDVDだ。
「それどうしたの?」
「レンタルビデオ屋のワゴンセールの中にあったんだ。俺はこずえを助けるつもりで購入したんだ。でも、まだ観ていない」
功一がDVDをこずえに差し出した。こずえは眉間に皺を寄せながら、DVDを受け取った。
「本当に……、観ていないの?」
「ああ、観る気になれなくてね……。ワゴンセールの廉価品の中に混じって埋もれていたんだ。1000円という下品なピンクのシールを貼られて……」
「そう……」
こずえの顔が妙に寂れて見えた功一だった。功一はベッドに腰掛け、こずえに寄り添った。そして、肩を抱き寄せる。
「そのDVDはこずえが好きなように処分していいよ。俺はこずえが安売りされているのが我慢出来なかったんだ」
「ああ、ありがとう。功一……」
こずえはDVDを放り出し、功一に抱きついた。
見つめ合う瞳は閉じられた。唇が重なった。こずえが功一に抱きつき、全体重をかけて功一をベッドの上に押し倒した。
「ねえ、私を抱いて……! 思いっきり愛して欲しいの……」
功一が無言で頷いた。
月曜日から、功一は四時間の半日勤務へと移行していた。まだ自主リハビリの勤務ではあったが、徐々に復調している自分に自信を取り戻しつつある功一であった。それは、何よりも渡辺の庇護の下にいる安堵感があったからに他ならない。
功一は調査文書の発送などの仕事をしていた。まだ、家庭訪問などの実務は担当させてもらえなかったが、僅かでも仕事に爪が引っ掛かっているような気がして、心の中は充実していた。
それでも、さすがに月曜日は功一も緊張していた。何せ五ヶ月ぶりの仕事である。緊張しないはずがなかった。
渡辺が功一の横に来て肩を叩いた。
「ふふふ、緊張しているな。給湯室でコーヒーでも一杯どうだ?」
功一は振り返って「はい」と笑った。
給湯室で功一は自分のカップにコーヒーを淹れた。渡辺はお茶である。
「実は今週の水曜日、課長が神崎の病状を聞きに、病院に行くことになっている」
「私の受診に同席するんですか?」
「ああ、人事課を通しての正式なリハビリ勤務のための病状調査だ」
「げっそり……」
功一は露骨に嫌そうな顔をした。
「まあ、そう落ち込むな。通らなきゃならない道だ。それより、あのデリカシーのない課長を教育する良い機会かもしれんぞ」
「課長のあの性格は直りませんよ」
「まあ、そうかもしれん。奴は馬鹿だからな。だが、先生とお前で上手く丸め込むんだよ」
「はあ、やってみます」
「その後には良いことがあるぞ。実はうちの市職員の沖釣り同好会の『竿鱗会』で、来月、釣りに行くことになっているんだ。それに神崎も誘おうかと思ってな」
渡辺はお茶を啜りながら、功一に目配せをした。
「何を釣りに行くんですか?」
「この前行った、新健丸からカサゴとイシモチのリレーだよ。俺が幹事だから、あの宿を選んだんだ」
「行きたいのはやまやまですが、私なんかが行ってもいいんですか? まだ竿鱗会にも入っていないのに……」