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カサゴ

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 昌子がこずえと功一に苦悶の表情でそう言った。
「嫌だ。私、お父さんの手術が終わるまでここで待つ!」
 こずえは泣き出しそうだった。昌子はそんなこずえの手を優しく握ってやった。
「わがまま言わないの。あなたもまだ治療中の身なのよ。今は病院の規則をちゃんと守らなければダメ。功一さん、こずえをよろしくお願いね」
 昌子は功一を哀願するような瞳で見つめた。功一は「わかりました」と言って、こずえの肩に手を添えた。
「さあ、行こう。時間までに病院に戻らなきゃ。こずえを送ったら俺がまた、ここへ来るよ。最後までちゃんと見守る。だから行こう」
 こずえは肩を震わせながら、小さく「うん」と頷いた。

 こずえと功一は厚木市内にあるファミリーレストランで食事を摂ることにした。病院の夕食は断っていたこずえだった。久々の外食も本来は楽しいはずなのだが、この時、こずえの口から出るのはため息ばかりであった。
 こずえはパスタを目の前にしていたが、フォークも握らずにいた。
「心配なのはわかるけどさ、少しは食べた方がいいよ」
 功一はパスタを食べるようこずえに促したが、こずえは俯いたままだった。
 功一は「ふう」とため息をついて、ハンバーグを口に運んだが、まるで味がしなかった。
 結局、こずえはパスタを二、三口啜っただけで、ほとんど残してしまった。
 功一がこずえを厚木市郊外にある精神病院まで送る。門限まであとわずかだった。
「お父さん……、大丈夫かな?」
 こずえは何度も功一にそう問いかけていた。功一はその度に、「大丈夫だ。必ず成功する」と言った。だが、功一もまた不安だった。それは喜久雄の手術のことも心配だったが、こずえの精神状態を考えると、またうつ病が悪化するのではないかという恐れを感じずにはいられなかったのである。
 こずえを病院に送った功一は、その足で東海大学病院へ引き返した。こずえも功一を引き止めたりはしなかった。こずえは開放病棟に移ってから、携帯電話を持っていた。昌子がこっそり差し入れたのだ。本来は病棟内に携帯電話を持ち込むことは禁じられていたのだが、他の患者も皆、携帯電話は所有している。功一は手術の結果をメールで送る約束をこずえと交わしていた。
 功一が東海大学病院に戻って手術室についた時、まだ喜久雄の手術は続行されていた。
「悪いわねぇ……」
 昌子が功一に頭を下げた。
「いいんですよ。最後まで私もいますから。結果はこずえさんにメールで送ることになっているんです。それとこれ、うちからのお見舞いです」
 功一は母から預かった熨斗袋を昌子に渡した。
「そんな、気を遣わなくてもいいのよ」
「気持ちなので取っておいてください」
「ありがとうございます。正直なところ、主人とこずえの医療費も馬鹿にならないのよね」
「お父さんは医療保険の付いている生命保険には?」
「もちろん加入しているわ。今回の手術費用も生命保険から捻出しようかと思って……」
「ここのケースワーカーで知っている人がいますから、よかったら顔つなぎしますよ」
「ありがとう。功一さんは頼りになるわね」
 功一は気恥ずかしくなったのか、頭を掻いた。
 それからどのくらいの時間が経っただろうか。時計は二十四時を指そうとしていた。
 不意に手術室の扉が開いた。中から執刀医が出てくる。
「手術は無事に終わりましたよ。動脈瘤も切除しました」
「ううっ、ありがとうございました……」
 昌子が泣き崩れんばかりの勢いで、執刀医に頭を下げた。功一も深く礼をする。
「脳の真ん中にメスを入れましたので、正直、難しい手術でした。意識が戻るまでは何とも言えませんので……」
「でも先生、今、無事に終わったと……」
 昌子が執刀医に縋りつくような視線を送る。
「手術自体は成功です。ただ予後までは、今のところ何とも言えません。しばらくはICUに入って予後を観察させてもらうことになります」
「予後ですか?」
「まあ、正直なところ、最初の出血の際、右脳がやられていましてね。程度はわかりませんが、左半身に麻痺が残る可能性があります。後、脳外科手術をされた患者さんに多いのですが、てんかんを併発する可能性も否定できません」
「ううっ……」
 昌子から大粒の涙が零れ落ちていた。功一は「お母さん、しっかり」と言って、その肩を支えた。喜久雄を乗せた寝台はカラカラと音を立て、運ばれていった。
「お母さん、ご自宅まで送りますよ。それと、こずえさんにメールを打たなきゃ」
「あの子には手術が成功したことだけ伝えて……」
「わかりました」
 病院を出た功一と昌子は、功一の車で厚木の恩名にある、こずえの実家に向かった。

 翌日の朝、功一は異様なまでの倦怠感に襲われていた。布団から起き上がることができなかった。毎朝、起き掛けには煙草を吸う功一であったが、その気力すらない。
 昨夜は家に帰ってから眠剤を飲み、泥のように眠った。だが、目覚めてみると、身体の中にまるで鉛が入っているようではないか。
(これが係長の言っていたバッテリー切れか……)
 考えてみれば、ここのところ功一の周囲はめまぐるしく動いていた。功一も自らその仲へと突入していった。その疲れがうつの症状として出たのだろう。今日は通勤練習も出来そうにないと思う功一であった。
 結局、功一は渡辺に電話を入れて、その日の通勤練習を断った。幸いなのは、午後から受診が入っていたことである。
(やっぱり俺はまだ良くなっていないのかな……)
 こずえの入院、喜久雄の入院、そして通勤練習と自分でも重い荷物を背負っている感じはある功一であった。
 午後の受診で功一は今日、うつの状態で、あまり調子が良くないことを素直に主治医に述べた。
「うーん……」
 主治医はカルテに目を落としながら唸った。
「少し、焦りすぎじゃないですか? まだ、すぐバッテリー切れになるようじゃ、良くなったとは言えませんね」
「今まで自分では全力疾走してきたつもりなんですが……」
「全力疾走するにはまだ早いですよ。通勤練習も始めて、恋人は入院中……。もう少し、自分のペースでいきましょうよ」
 主治医はにっこりと笑った。功一は困ったような笑いを浮かべるしかなかった。結局、受診では日中の安定剤が追加になった。

 それから一週間が過ぎ、功一は徐々に復調していた。ただ、気がかりなのは喜久雄の意識が戻らないことだった。正直、こずえに「お父さんは?」と訪ねられ、「まだ意識が戻らない」と毎度のように報告するのが辛かった。こずえも、功一も、そして昌子ももどかしく、辛い日が続いていた。
 功一は通勤練習にも戻っていた。係長の渡辺は功一の身を案じ、いつも「無理をするなよ」と声を掛けてくれていたものである。
 その日、功一はこずえの病院を訪れた。そこで耳にしたのはこずえの退院が決定したという朗報だった。
「やったね、こずえ!」
「功一―っ……!」
 二人は抱き合って喜んだ。
「今度の土曜日に退院だって?」
「うん。功一、お母さんと一緒に迎えに来て……」
「ああ……」
「早く、お父さんのお見舞いに行きたいな」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸