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カサゴ

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「手術は明日の正午から始まるの。私はずっと病院に詰めているから、功一さんにこずえのことお願いしてもいいかしら?」
 昌子のその言葉に、功一は「もちろんですよ」と答えた。

 翌日、通勤練習で市役所に出勤すると、係長の渡辺が人懐っこい笑顔で寄ってきた。
「今日も来られたな。よかった、よかった……!」
「これも、係長のお陰ですよ」
「よかったら、今日はちょっとデスクに座ってみないか?」
「ちょっとの時間でしたら……」
 功一の今のデスクは臨時任用職員が座っている。功一は非常勤職員が使う机に向かった。そこには発送するための書類が山のように積まれていた。
「生活保護法第二十九条による資産調査ですか?」
「そうだ……。本格的なリハビリ勤務に入ったら、まずは非常勤職員と一緒にこれをやってもらおうと思ってね」
 功一の中で復職へのモチベーションが一段と高まっていた。いずれ退院するであろうこずえと喜久雄。喜久雄を安心させてあげたかった。そのために復職したいと強く思っていた。
「係長、ちょっといいですか?」
「ん?」
 功一は立ち上がり、給湯室の方を向いて、渡辺に目配せをした。渡辺はニコニコして功一の後についていった。
「係長、私のリハビリ勤務なんですが、来週あたりから半日勤務にしてもらえませんかねぇ?」
「おいおい、そんなに焦るなよ。前にも言ったが復職するのは来年の三月以降でもいいんだぞ」
 渡辺は自分の湯飲みにお茶を淹れて、功一を見つめた。だが、功一の瞳には力が篭っていた。
「実はこれがいるんですが……」
 功一が小指を立てる。
「彼女の父親がくも膜下出血で危篤なんですよ。実は今日、手術で……」
「ほう……」
「彼女とは結婚するつもりでいるんですけど、できれば早く復帰して彼女の父親を安心させてあげたいんです」
 渡辺はお茶をズズッと啜った。上目遣いで功一を見ている。
「まあ、気持ちはわかるが、うつ病は焦るのが一番良くない。俺は何人も部下を病気にさせてきたし、生活保護世帯でうつ病を抱えている人を何人も知っている。焦っても良い結果は生まれないぞ。どうだ、自分の病気とは真剣に向き合えているか?」
「はあ、そのつもりなんですが……。結構、今の自分にはエネルギーが溜まってきているかなって感じで……」
「だが、うつ病はエネルギーを消耗するのも早いぞ。当面は自主リハビリをして、様子を窺うのが妥当だと思うな。焦って復職したはいいが、その時にエネルギー切れになるようでは困る。給料が下がるとは言え、休職になってから一年間は有給でいられるんだ。それを治療に対して有効に使わない手はない」
「はあ……」
 渡辺の言っていることに一理あるように思える功一だったが、こずえとの新生活やこずえの父親のことを思えば、ここで足踏みをしているわけにはいかなかった。
「ま、先は長いんだ。ゆっくりやれや」
 渡辺は功一の肩にポンと手を置いた。その掌は無骨な感触だったが、温かみのある感触だった。功一はフッと笑った。
「あ、そういえば、そのうち課長が主治医に意見を聞きに行くと思うぞ」
「げっ、課長が来るんですか? 係長じゃダメなんですか?」
 功一は苦虫を潰したような顔をした。
「まあ、こればかりは仕方ない。主治医訪問は課長の仕事だからな。俺にはその権限がない。逆に課長を啓発する良いチャンスじゃないかな?」
「主治医からガツンと言ってもらいますか……」
「ふふふ、それも良いアイデアかもしれんぞ。入念に主治医と下打ち合わせをしておくんだな」
 渡辺の瞳がさも可笑しそうに笑っていた。
「じゃあ、私はこれで失礼します。何せ、今日は彼女の父親の手術に立ち会うんですよ」
「ほう、もうそこまでの仲なんだな」
「ええ、彼女も釣りが好きなんです。そのうち係長と一緒に釣りに行けたらいいなと思っています」
「そりゃ、楽しみだ」
 渡辺の目が細くなり、三日月のようになった。

 功一は一旦、実家に帰ると、急いで車に乗り込もうとした。それを母の律子が引き止めた。
「あの、これ、少ないけどうちからのお見舞い」
 律子が差し出した熨斗袋には「お見舞」と書かれてあった。
「まだ挨拶もしていない仲なんだけどね。功一を見ているとこっちも気が気じゃないんだよ」
「母さん、済まない……!」
 功一は熨斗袋を受け取ると、車に乗り込んだ。目指すはこずえの入院している精神病院である。功一は父の鉄男から厚木への抜け道を教わっていた。それは東名高速道路の側道だった。何せ、十時にはこずえを迎えにいく約束をしている。渋滞に巻き込まれているわけにはいかなかった。
 功一は九時五十分にこずえの入院している精神病院に着いた。開放病棟でもその出入りは看護師がきちんと管理をしている。功一は病院の受付でケースワーカーにこずえと外出する旨を伝えた。ケースワーカーは「伺っていますよ」と言い、すぐにこずえを連れてきてくれた。
「じゃあ、お気を付けて」
 ケースワーカーは微笑みながら二人を送り出してくれた。
「あー、この車乗るの久しぶり……」
 小豆色の軽自動車の助手席に乗り込んだこずえは不安と嬉しさが入り混じったような顔をして、そう呟いた。
 功一はすぐにアクセルを踏み込んだ。東海大学病院へも東名高速道路の側道を走れば、比較的早く着く。功一は良い道を教えてもらったと、鉄男に感謝していた。
 東海大学病院の手術室の前に昌子はいた。
「お母さん!」
 こずえが昌子に駆け寄った。昌子も不安そうな顔をしている。昌子の話によれば、喜久雄の動脈瘤は脳幹近くにあり、非常に難しい手術なのだとか。三人は肩を寄せ合うようにして手術室の前の椅子に座っていた。
 正午ちょっと前、喜久雄が寝台に乗せられ、運ばれてきた。
「お父さん!」
 こずえが真っ先に駆け寄った。
「もう、麻酔で眠っていますので……」
 搬送する看護師がそう言った。喜久雄の頭は綺麗に剃られていた。喜久雄は無言のまま手術室へと運ばれていった。
 喜久雄と入れ替えに執刀医が手術室から出てきた。
「我々も全力を尽くします。脳幹部の動脈瘤は何せ日本ではあまりない症例でして、この手術を行ったことのある先生に電話で指示を仰ぎながら行いますので、かなり時間もかかると思いますが、よろしくお願い致します」
 功一はその執刀医の話を聞いて、少し不安になった。昌子もこずえも不安げな顔をしている。だが、今は執刀医の「全力を尽くす」という言葉を信じるしかなかった。
「よろしくお願い致します」
 昌子が深々と頭を下げた。執刀医は「お任せください」と言って、手術室の中へ消えていった。手術中というランプが点灯した。
「ああ、功一、もし失敗したらどうしよう?」
 こずえが功一の胸に縋りついてきた。功一は優しく抱きしめると、「大丈夫だよ。必ず成功する」とこずえを慰めた。だが、そう言っている功一にも確証があるわけではなかった。昌子は両手を組んで祈るようなポーズをしていた。
 手術は執刀医の言う通り、長丁場となった。こずえは十九時までに病院に戻らなければならなかったが、十七時を過ぎても手術中というランプは消えない。
「ねえ、二人とも食事をして、そのまま病院に戻って」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸