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カサゴ

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 渡辺は竿掛けに竿を置くと、イシモチを掴んだ。そして、鋏で鰓の付け根を切り、血抜きを行った。功一も見よう見まねで血抜きを行う。
「イシモチはな、この血抜きで美味くなるんだ。魚屋で売っているイシモチとは比べ物にならんぞ」
 そう言っている間に二人の竿先が震えた。
「どうだ、楽しいだろう?」
「はい、医者からも釣りがうつ病に効くと言われています」
 功一は照れたように笑いながら答えた。
「よーし、これからはお前も釣りに誘うからな」
「私、明日から通勤訓練しようと思います」
 渡辺がにっこりと笑い、力強い瞳で頷いた。
 船上ではイシモチが恨めしげな目をしながら、グウグウと鳴いていた。

 翌朝の八時半、市役所の生活福祉課の窓口に功一は現れた。これでも功一は動悸を抑えながら出勤したのだ。それは臆病なカサゴが、少しだけ勇気を振り絞り、岩陰から出てくる姿を想像させた。
 功一の姿を見つけ、すぐさま渡辺が駆け寄った。
「おう、やっぱり来たか」
 渡辺は人懐っこそうな笑顔を湛え、功一の肩をポンと叩いた。功一は照れたような笑いを浮かべ、頬を掻いた。その視線は渡辺に向けられているのだが、時々、ちらちらと課長の柏木にも向けられた。柏木はつまらなさそうな顔をして、パソコンを立ち上げていた。
「今日はこれで帰っていいよ。神崎のリハビリ勤務は本来、課長が組むべきなんだが、俺が課長から一任されているんだ。今は人事課を通さず、自主リハビリということにしてあるから、遊びに来るつもりで来いよ」
 渡辺は自慢げにそう言うと、またにっこりと笑う。
「ありがとうございます」
 功一は渡辺に深々と頭を下げた。
「ところで、イシモチは刺身で食ったか?」
「ええ、もちろん。家族で食べました。残りは塩焼きにしようかと思って冷凍してあります」
「そうか。一夜干しもなかなかのもんだぞ。まあ、いいや。今度、また一緒に釣りに行こう」
「はい……!」
 功一は渡辺に一礼した。そして、ゆっくりと生活福祉課を後にしたのだ。
(思ったほど緊張しなかったな……)
 功一は自分の胸に手を当ててみた。動悸はもう収まっていた。頓服薬が功を奏したとの見方もあるが、功一の初出勤訓練が無事に終わったのも、渡辺のお陰と言わねばなるまい。
 功一は市役所裏手の灰皿の前で煙草に火を点けた。そして、「フーッ」と灰色の息を吐き出す。何人かの市民がたむろしていたが、功一が市役所の職員と気付く者はいなかった。功一はスーツこそ着用しているものの、徽章は付けずに通勤訓練に臨んでいた。灰皿の周囲は紫色の煙にくすんでいた。
 功一は秦野の精神病院の喫煙室を思い出していた。ここのように開放された空間ではなかったが、あそこも紫色の煙でくすんでいた。そんな燻されたような空間で功一とこずえは出会ったのである。
(そうだ、これからこずえの病院に行かなくちゃ……)
 紫色の煙を眺めていると、妙にこずえが恋しくなった功一であった。

 功一は一旦、家に帰ると、水槽の中のカサゴにアオイソメを与えた。カサゴは岩陰から出てきて、大胆にそれを咥えた。ここのところ、週に一回は大磯港まで海水を取りに行っている功一である。餌のアオイソメも欠かさない。それほど、十センチほどの小さなカサゴに愛着が湧いていた。
「母さん、こずえのところに行ってくるよ」
「また、面会時間ギリギリまでいるのかい?」
「まあね。それでこずえの実家にも顔を出してくるよ。ところで母さん……、こずえが退院したら結婚してもいいかな?」
「まあ、気が早いこと……」
 母の律子は驚きを隠せなかった。その顔は「本当に大丈夫かい?」と言っているようにも見えた。そんな母の心配を見透かしたように、功一が親指を立てた。
「大丈夫。俺たちは上手くやるさ」
「そうよねぇ。功一が身体を張って守った相手だものねぇ……」
 律子がフッと笑った。そんな母の笑顔を見て、功一は「苦労を掛けたな」と思う。無論、自分の病気のこともそうであるが、アダルトビデオに出演し、リストカットまでした女性と付き合っているのだ。そして、功一は結婚をもこずえとの間では約束していた。母の心配がわからないわけではない功一であった。見れば律子の顔の皺も深い。少しばかり心配を掛けすぎたとも功一は思っていた。その母の心配を少しでも軽くしてやりたかったが、それは時間のかかる問題でもあると思った。こずえの退院もまだ見通しがたっていなかったし、何より通勤練習に行くにも、頓服薬が欠かせない。まだ、激しい潮流の中で揉まれている小船のような状態なのだ。功一もこずえも……。
 功一は律子に微笑をひとつ投げかけると、車のキーを手に玄関を開けた。空はどこまでも抜けていた。
 
「へえ、通勤練習、始めたんだ……」
 喫煙室で煙草を吸いながら、こずえが笑った。
「まあね。係長が良い人でさ……。俺のリハビリ勤務を組み立ててくれているんだ。しばらくは通勤練習かな。まあ、今日行った感触では頓服の安定剤を飲めば、何とかこなせるよ」
 功一が煙を吐き出しながら、自嘲的に笑う。こずえは功一の横にべったりとくっついていた。
「そうそう、昨日、その係長と釣りに行ったんだよ。イシモチ釣り。なかなか面白かったよ。こずえが退院したら、また釣りに行こう」
「あー、行きたい。私ね、昨日夢で見たの。功一と釣りに行っている夢。あの新健丸が出てきてさ、なかなかポイントに着かないっていう夢……」
「わはははは……!」
 功一が豪快に笑った。こずえがクスッと笑う。
「私もね、功一といる時だけよ。笑えるのは……」
「そうか……、辛いんだな……。でも、退院したらいいことあるからさ。今日はこずえの実家に寄ろうと思っているんだ。こずえのお父さんやお母さんにも結婚を認めてもらおうと思ってね」
「ありがとう……!」
 こずえが功一の腕に腕を絡めてきた。間近で煙が交錯した。

 功一は浮かれ気分で車のハンドルを握っていた。こずえの両親に会い、結婚の許可を求めた功一であったが、こずえの父、喜久雄は「娘は君と結婚してくれなきゃ困る」と笑い飛ばしてくれた。功一は通勤練習のこともこずえの両親に告げたが、それも喜久雄は高く評価してくれていた。
「まずはしっかりと復職をして家庭の基盤を作らないとな」
 その喜久雄の言葉がしっかりと功一の耳に焼きつき、反芻していた。
「こずえと結婚できる……!」
 功一は鼻歌交じりで小豆色の軽自動車を実家に向けて走らせていた。
 そんな功一が帰宅すると、母、律子が血相を変えて、功一の元に駆け寄った。
「今、こずえさんのお母さんから電話があって、こずえさんのお父さんが倒れられたらしいの!」
「えっ、馬鹿な! さっき話をしてきたばかりだぜ……」
「何でも、急に倒れたらしくて、救急車で東海大学病院に搬送されるって……」
 功一も東海大学病院なら知っている。ちょうど国道246号線沿いにある大きな病院だ。こずえの実家や自分のアパートの行き帰りには必ずその前を通るのだ。
 功一は居ても立ってもいられなくなり、再び車に乗り込もうとした。
「ちょっと、功一が行ったらかえって気を遣わないかしら?」
 律子は心配そうな顔をして、功一を引き止めた。
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸