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カサゴ

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「お母さんにも、うつ病のことをよくわかってもらう、いい機会ですから言いますが、うつ病というのは立派な脳の病気なんです。功一さんの場合、相当なストレスがかかって発症したんですが、回復にはそれなりの時間がかかります。私はリハビリ勤務を始めるには時期尚早だと思いますよ。まあ、通勤練習くらいはいいと思いますが、本格的に始めるにはまだ早いと思います。それと、アルコールはうつの呼び水になるケースがあります。ますますリハビリ勤務から遠ざかることになるでしょう。今はしっかりと治す時期ですので、過酒になるようなアルコールの飲み方は避けてください」
 いつも淡々としている主治医だが、この時ばかりは熱く語った。律子はただただ恐縮し、「はい」と頷くのみであった。だが、功一は不満顔だ。
「酒は唯一のストレス発散なんですけどね」
「ストレス発散は別のことでやってください。ほら、前にも言った釣りとか……」
 主治医は眼鏡を指で上げながら、功一の顔を覗き込んだ。
「釣りかぁ、釣りねぇ……」
 功一は思い出していた。こずえと行った新健丸のカサゴ釣り、そして、大磯漁港での釣りを。確かに釣りには何とも言えない、人間の狩猟本能を刺激する魅力がある。
「しかし、釣った魚で一杯やりたくなりますね」
 功一がややもすると卑屈な笑いを浮かべた。
「じゃあ、こうしましょう。飲んでいいのは、週に一回、ビール一本だけ」
「ええっ、週にビール一本だけですかぁ?」
「それ以上はやめましょう。お母さんもしっかりと管理をお願いします。きっと入院中のお相手さんも、神崎さんのことを心配していると思いますよ」
 主治医は貧乏ゆすりを始めていた。
「いいかい、功一、先生の言うとおりにするんだよ」
 律子が心配そうな顔をして、功一を覗き込んだ。
「わかった。我慢するよ」
「それと、調子の悪い時のアルコールは厳禁ですからね。うつの繰り返しになりますよ」
 功一は「わかりました」と言って、主治医に頭を下げた。律子も恐縮したように頭を下げる。

 その日の夜、功一は渡辺係長に電話を入れた。通勤練習の話ではなく、釣りの話をするためにである。
「おお、是非とも行こう。俺も竿鱗会っていう市職員の沖釣り倶楽部のメンバーに入っているんだよ。今、イシモチが釣れている。是非行こう」
 渡辺は機嫌が良かった。
「イシモチですか? 釣ったことないです」
「アタリは明快でよく引く。食べても美味いぞ。血抜きをしてな、持ち帰ったイシモチはスーパーで売っている物とは別物だ。刺身にして良し、煮て良し、焼いて良し。俺はマダイなんかより美味いと思うね」
「そうですか。じゃあ是非ともご一緒させてください」
「そうだな、釣りをしながら今後のことを語り合ったっていい。まあ、悪いようにはしないから……。じゃあ、今度の日曜日はどうだ?」
 渡辺の声は上ずっていた。
「私はいつでもOKです」
「じゃあ、決まり。本厚木の駅、南口に五時集合でどうだ? 車は俺が出す。金沢八景の新健丸っていう船宿がイシモチの船を出している。俺の馴染みなんだ」
「くくっ……」
 功一は思わず笑った。
「何がおかしい?」
「新健丸なら、私も知っていますよ。新健丸から夏にカサゴ釣りに行きました」
「そうか、そうか……」
 渡辺は嬉しいのだろう。声が上ずっていた。

 翌日、功一はこずえの入院している病院に行って、昨日の診察の内容をこずえに報告した。
「ふーん。やっぱりお酒は良くないんだ」
「うん、医者が言うにはね」
「週にビール一本なんて、守る気なんてないんでしょう?」
 こずえが悪戯っぽく笑った。
「いや、大人しくしていようかと思ってさ。それに通勤練習をそろそろ始めようかと思うんだ。課長は嫌な奴だけど、係長が良い人でね。それにこずえだって飲めないんだし、その状況を共有するのも悪くないと考え直してね」
「功一は本当に思いやりがあって、優しいよね。好き……」
 こずえが功一にもたれかかってきた。功一はこずえの肩をそっと抱き寄せる。
「ところで、カサゴ君は元気? あの大磯港で釣ったやつ……」
「ああ、元気だよ。こずえに会えない時は、カサゴに餌をあげて遊んでいるんだ」
「ああ、また功一と釣りに行きたいな。海の風に吹かれたい」
「悪いなぁ。実は俺、今度の日曜日に係長と釣りに行くんだ」
「えっ、何を釣りに行くの? カサゴ?」
「ううん、イシモチさ。あまり馴染みがない魚だけど、係長の話じゃ釣って面白く、食べて美味いらしい」
「イシモチって食べたことあるわよ。ちょっと生臭くて、身に締りがない魚よね」
 こずえが顔をしかめた。
「係長の話じゃ、それはスーパーで売っているイシモチの話だそうだ。何せ足の早い魚らしい。でも、釣ってちゃんと血抜きをした新鮮なイシモチは刺身でも食べられるし、煮ても焼いても美味いらしいよ」
「いいなぁ。そんなお魚を食べられて……」
 こずえが羨望の眼差しで功一を見た。
「退院したら、一緒に行こうよ」
「あーあ、私も早く退院したなぁ。実は男性患者の中に私のDVDを観たことがあるっていう人がいてさぁ。馴れ馴れしく声を掛けてくるばかりか、厭らしい視線で私を見るのよねぇ。それがたまらなく嫌でさ」
「こずえは俺のものだよ。誰にも渡さない。もう少しの辛抱だ。退院したら俺と結婚してくれないか? こんなところでプロポーズするのも何なんだけどさ」
「嬉しい! 結婚してくれるの?」
 こずえの腕が一層強く功一の胴体に巻きついた。
「当たり前さ。俺はもうこずえ無しでは生きていけない」
「私も!」
 こずえと功一は見つめあった。自然と瞳が閉じられる二人。看護師から注意を受けるのはわかっていた。だがこの時、唇だけでも重ねずにはいられない二人であった。

 日曜日の五時前、功一は本厚木駅南口のロータリーで渡辺を待っていた。前日は厚木のアパートに寝泊りした功一であった。五時ちょうどに渡辺はやってきた。
 功一は渡辺の笑顔を久々に見た。車の中では終始、釣りの話題で持ちきりだった。どうやら渡辺も新健丸が常宿らしい。
 渡辺の話ではイシモチの標準和名は「シログチ」といい、頭の中に石を持っていることから「イシモチ」と呼ばれているとのことであった。イシモチは釣り上げると、グウグウと鳴き、それが愚痴を言っているように聞こえることから「グチ」と呼ばれるのだ。
 釣り方は至ってシンプルで、底にオモリが着く程度にして、置いておけば勝手に食い込んでくれるという。狙う底も砂泥帯を狙うので根掛かりもほとんどないらしい。
 六時前くらいには、二人は新健丸に着いた。若女将に乗船料を支払い、船に乗り込んで支度にかかった。
「神崎の竿は先調子だな。ちょっと、クッションゴムをつないでおいた方がいいかもしれん。何せ、イシモチは餌の端からネチネチと食うんだ。違和感があると離してしまうんだよ」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸