カサゴ
「済みません。ここは精神病院なので人前でキスはちょっと……。他の患者さんの刺激にもなりますし……」
看護師は言いにくそうに、そう言った。こずえが恨めしげに看護師を睨んだ。功一は看護師に一礼すると、「どこか二人だけになれる場所ってあります?」と尋ねた。
「そうですね。相談室なら……。でも、こういうことのために使う相談室じゃないんですけどね。病院の規律が乱れますし……」
看護師は困ったような顔をしながら、頭を掻いた。
「じゃあ、キスをしなきゃいいんでしょ?」
こずえがむくれたように言った。こずえは頬を膨らませながらも、功一に腕を絡ませてきた。看護師は肩をすくめると、ナースステーションへと引き揚げていった。
「ねえ、功一……。面会時間、ギリギリまでいて……。私、寂しかったの」
「俺だって寂しかったさ。こずえのいない時間なんてあり得ない。だから、よくこずえの実家にもお邪魔したよ。そう、こずえの小さい頃の写真とか見せてもらったよ」
「やだー、私の小さい頃の写真、見たの? 私、小さい頃ってお洒落に無頓着でいつも寝癖だらけだったのよ」
「見た、見た。そういう写真……」
「あー、もうヤダ。最悪……! どうして見せるかなぁ、うちの親は……」
「今度、退院して俺の実家に来たら、俺の小さい頃の写真も見せてあげるよ。俺なんか、中学まで坊主だぜ」
「ぷぷっ、功一の坊主姿って想像つかない」
こずえがさも可笑しそうに笑った。
「そういえば、私って笑ったの、久しぶりかも……。やっぱ、私には功一が必要なのね」
こずえは絡めた腕を更にきつく締めてきた。横に並びながら頭と頭をくっつける。キスがダメというならば、このくらいは許されよう。今日はこずえが望むとおり、面会時間ギリギリまでこの病院にいようと思う功一だった。この時、まだ二人は恋の真っ只中にいた。甘い蜜の香りを漂わせて……。
功一を甘い恋の世界から、現実に引き戻したのは一本の電話だった。それは直属の課長からの電話だった。生活福祉課長の柏木からの電話である。
「先日は人事課に派手に啖呵を切ったそうじゃないか」
電話の向こうで柏木がしかめ面をしているのが、功一には見えた。
「で、お前のリハビリ勤務を調整しろと人事課から言われている。今、臨任職員が着ているから、自主リハビリでも始めろ。いいか、俺はうつ病なんか病気と認めねえからな。そんなのは気の持ちようなんだ。最近の若い奴は気が弛んでいるから、うつ病なんかになるんだ。診断書に胡坐かいて、いつまでも休んでんじゃねえぞ。まったく……」
その課長の発言はうつ病に対する偏見の塊で人権上問題あるそれだったのだが、功一は喉元にナイフを突きつけられたような気がした。功一は課長と折り合いが悪かったのだ。課長の慇懃な物言いは、いつも他人を見下すようなお役人の態度そのものだった。そのくせ、上にはおべっかを使うのだ。それは、お役人というだけでなく、人の厭らしさがそのままオーラとなって噴出しているようでもあった。
「課長はうつ病に誤った知識をお持ちのようですね。よくそれで課長が勤まりますね」
「何?」
「今の生活保護の受給者にはうつ病の人も多いんですよ。そんな誤った見方をされちゃ、適切な支援もできないでしょう。まあ、舵取りがそれじゃあ、うちの課もその程度ということです」
功一は自分でもよくそんなことが言えたと思う。今まで課長から叱責されても、ただ忍従の日々を過ごしてきただけに、今の功一の発言は正に反撃であった。
「お前、いつから俺に意見できるようになったんだ。職員歴三十五年の俺に……」
「三十五年も勤めていて、その程度じゃねぇ」
今の功一には脅しは効かなかった。功一はここのところ、自分のうつ病は課長が決裁を行わなかったり、功一に残業を押し付けたりしてきたからだと思っていた。課長は慇懃無礼な態度で、若手職員を苛め、楽しんでいるかのように思えた。それは若手職員を育てようという視点が欠如していたと思われても仕方のない態度だった。そう、言わばパワハラである。
「お前がそういう態度ならば、俺にも考えがある」
「いいですよ。課長がその気ならこっちはパワハラで『市長への手紙』を出しますから……」
功一がそう言うと、受話器の向こうで課長がたじろぐのがわかった。「市長への手紙」とはいわゆる目安箱みたいなもので、直接秘書課に行く。秘書課は事実確認のために担当課を調査することになっているのだ。
「いいですか、私を病気に追い込んだのは課長なんですよ。その慇懃な物言いはもううんざりです。こっちは今にでも『市長への手紙』を書いたっていいんですよ。それから産業医面接では洗いざらい喋りますからね」
「わかった。もう何も言わねえ」
「兎に角、こっちは療養中なんですから、放っておいてください」
そう言って功一は電話を一方的に切った。功一は思った。いつから自分はこんなに強くなったのだろうかと。きっと、こずえの存在がそこにあることは確かだった。自殺未遂したこずえが生きているだけで、功一は勇気を貰える気がするのだ。そして、こずえは保護室から出てきた。面会時間であればいつでもこずえと会うことが出来るのだ。愛と勇気は背中合わせだと言う人もいる。この時、こずえの存在は功一に勇気を与えてくれたのである。
ただ、正直言って、復職した時のエネルギーは莫大なものがいるだろうと功一は予感していた。
功一が悪いことの後には良いことがあると実感したのは、保護係長の渡辺から電話が掛かってきた時である。それは時間外、しかも深夜に近い時間に掛かってきた。
「よう、神崎、どうだ具合は?」
「はあ、まあまあです」
「そりゃいい。先日の課長とのやり取りを聞いていて俺もハラハラしていたんだよ。何せ、あの課長だからな」
功一は渡辺のその言葉に思わず苦笑を漏らした。
「まあ、あの性格は今に始まったことじゃないでしょうから……」
「俺に力があればなぁ。課長にあんなことは言わせないのに……。それより、課員はみんなお前のことを心配しているぞ。課長のパワハラになんか負けるなよ。実は俺、課長と同期なんだが、あいつの方が出世してね。上にはおべっか使うだろう。ああいう奴は信用置けない。課長を嫌っているのはお前だけじゃない」
功一は渡辺に酒が入っていることを直感した。いつも寡黙な渡辺がここまで饒舌になるのは酒が入った時くらいだ。
「係長、私のこと、今後も守ってくれますか?」
「おお、いいともよ。課長の横暴に困っているのはお前だけじゃないんだ」
「係長、頼りにしています。先日の電話の後、私、不安になっちゃって、眠れなかったんですよ」
「今後、決裁のことは文句を言わせん。何しろ、生活保護に従事しているのは俺の方が長いんだからな」
だが、功一はこの時、冷静だった。公務員の口約束など実行された例がないのだ。渡辺も酒が入って気が大きくなっているだけだと、功一はこの時思った。それでも功一は嬉しかった。課長を苦々しく思っているのは自分ではないということがわかって。たとえ、酔っ払いの戯言でも、それは渡辺の本音だろうと思ったのだ。
「ところで、どうだ? 少しはリハビリ勤務に来れそうか?」