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カサゴ

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 昌子が「本当は夕食のおかずなんですけど」と言って、つまみに煮魚を出してくれた。
「これ、カサゴじゃないですか?」
「ええ、魚屋さんで勧められたの。煮魚にして美味しいって」
「以前にこずえさんと、カサゴを釣りに行ったことがあるんですよ。その時は僕のうちで全部食べちゃいましたけどね」
 喜久雄がクスッと笑った。釣られて功一も笑う。
「煮魚は私の好物なんだ。そういえば、魚嫌いだったこずえも君と付き合うようになってからは魚を食べるようになったっけな」
 そう言って、喜久雄がカサゴに箸を伸ばした。
「うん、骨っぽいが美味しい魚だ」
「今度、釣ってきたらここにもお裾分けしますよ」
「ところで、復職の方はどうなっているんだ?」
「それなんですよ。人事課長の厭味で参っているんです」
「まあ、この病気に対する偏見はあるさ。こずえだって一見、病気には見えなかったが、確実に心を蝕まれていたんだ。表面的に見えづらいだけに、君も辛い思いをするだろうな」
「はい、そうなんですよ。人事課長にはサボっているかのように言われました」
「私も医者から散々、病気のことを説明されたよ。脳の神経伝達物質の問題らしいな。つまり、うつ病は心の病とは言っても、立派な脳の病気ということらしい」
 喜久雄と功一は酒を酌み交わしつつ、うつ病のことについて論議を交わしていた。
「身体がかったるくなって動かなくなる時って、まるで風邪のひきはじめみたいですよ」
「うむ、こずえも最初は風邪だと思ったらしいぞ」
「でも、どこも悪くない。僕も最初は内科に掛かりましたからね」
「しかしなぁ……。公務員というのは思った以上に激務の部署もあるんだろう?」
「はあ、まあ……。僕のいる生活福祉課は数年に一度、病人を出すらしいんです」
「生活福祉課か……。何の仕事をしているのかね?」
 喜久雄がカサゴの身を解しながら尋ねた。
「生活保護です」
「生活保護か。話には聞くが、今、派遣切りとかで生活保護を受ける人が急増しているそうじゃないか」
「そうなんです。僕が担当していたケースは百を越えていましたからね。それに市議会でもよく突っ込まれて、資料作りに徹夜したこともありますよ」
「時間でオサラバできる公務員像とは程遠いな」
「よく苦情とかもありますしね。それより業務の中身自体がハードですよ」
 功一は仕事のことを思い出すのも辛かったが、少しばかりのアルコールが彼の気を紛らわせていた。
 そんな折、功一の携帯電話が鳴った。ディスプレーには見知らぬ番号が表示されていた。功一が不審に思って電話に出ると、その主はこずえだった。おそらく病院の公衆電話からかけているのだろうと、功一は思った。
「こずえ、こずえか?」
「功一、ごめんね。心配かけて……。私、もう大丈夫だから。それより功一に会いたいの。面会にきてくれる?」
「ああ、行くとも。今、こずえの実家に来ているんだ。お父さんとお酒を飲んでいるから、明日にでも会いに行くよ」
「嬉しい。私、まだ閉鎖病棟なんだ。措置入院の患者は閉鎖病棟から出られないみたい」
「そうなんだ。でも、元気そうで何よりだよ。こずえの声が聞けただけでもよかった」
「私も功一と話せてよかった。功一、沢木を追っ払ってくれたんだってね。お父さんから聞いたよ」
「おかげでアバラが折れたよ」
 功一が苦笑を漏らす。
「ごめんね。功一まで巻き込んじゃって……」
「いいよ、いいよ。そんなことは考えずにゆっくり休みなよ。休養が一番だからさ」
「ありがとう」
「じゃあ、明日ね」
 そう言って功一は電話を切った。功一は嬉しかった。それは一ヶ月ぶりに聞くこずえの声ということもあったが、こずえの声が淀んでいなかったからだ。
「ははは、家に電話してくるより、君に電話をしてくるなど、こずえも君を大分信頼しているようだな」
 酒の入った喜久雄が可笑しそうに笑った。功一は頭を掻いた。

 その翌日、功一は浮かれた気分でこずえの入院する精神病院へと車を走らせた。その病院は厚木市郊外にある。
 功一は受付で面会手続きを済ますと、病棟へと上がった。
「野原さん、面会ですよ」
 看護師が病室の外から声を掛けた。
 こずえは一番窓側のベッドに佇んでいた。こずえが振り向いた。化粧も何も施していないその少しやつれたような顔がにわかに笑った。
 功一は思わず、僅かな距離を駆けたようとした。
「こずえ!」
「功一!」
 だが、功一は看護師に制止された。ここは女子の病室である。男の功一が入ることは許されなかった。だが、駆けてきたのはこずえだった。廊下までの僅かな距離を駆けてきたのだ。
 二人は看護師や他の患者たちの前であるにも関わらず、熱い抱擁を交わした。そして、こずえも功一もその閉じた目からはらはらと熱いものを流していた。この手に届きそうで手に届かなかった一か月分の想いを二人は抱擁で確かめ合ったのだ。
 こずえの心臓の鼓動は早く、それが薄いブラウス越しに直接、功一の胸に伝わった。功一はここでこずえの唇を奪いたかった。その衝動を抑えるのに精一杯だった。逆光のこずえの顔は泣き顔でグシャグシャに見えたが、それは功一も同じことだろう。
 こずえと功一は看護師に付き添われ、食堂へと移動した。
「少し痩せたかな?」
 こずえの少し青白い顔を見て、功一が言った。
「食事、あんまり食べられなかったからね」
「ちゃんと食べなきゃ身体に悪いよ」
「はい」
 こずえが敬礼の仕草をして見せた。以前、こずえが秦野の精神病院から退院した夜、同じようにおどけて敬礼の仕草をしたことを功一は思い出していた。
 看護師が「面会が終わったら、声を掛けてください」と言って席を外した。食堂には統合失調症と思しき患者が徘徊をしていた。
「これを一緒に食べようと思ってね」
 功一は手に提げていたビニール袋を開けた。有名なバーガーショップのビニール袋だ。功一はそこからハンバーガーとオレンジジュース、そしてポテトを取り出した。
 ポテトを見てニヤッとこずえが笑った。秦野の精神病院で開放病棟に移り、駅前のバーガーショップにて二人でポテトを食べた記憶が、二人の頭の中には鮮明に甦っているはずだった。
 今度は功一が長いポテトの端を咥えた。こずえがはにかんだように笑った。功一は思う。多少やつれていてもこずえの笑顔はチャーミングだと。こずえがポテトのもう片方の端を咥えた。接近する唇と唇。周囲はこの二人には見えていない。そこだけ切り取られた空間なのだ。ポテトの中央で唇が重なった。
「やだー、キスしてるぅ!」
 周囲からそんな声も聞かれた。だが、今の二人にはノイズほどにも聞こえない。
(そうさ、俺たちは愛し合っているんだ。この幸せを他の人たちにも分けてあげたいくらいだ)
 功一は心の中で悦に浸っていた。それは、うっとりと瞳を閉じているこずえも同じであろう。
「ふふふ、あの時と同じだね」
 こずえが悪戯っぽく笑った。秦野のバーガーショップの時と同じ微笑だ。違うことといえば化粧を施していないことくらいか。
「そうさ。俺たちは離れていても一緒だ」
 功一はこずえの手をしっかりと握った。
「えー、んんっ、ゴホン……!」
 看護師が近寄ってきた。看護師の顔が少し赤い。
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸