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カサゴ

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 功一の携帯電話の着信音が鳴ったのは翌朝だった。身体は夕べの眠剤に支配されていた。眠りに落ちた後、急に効果を発揮したのだろう。異様に身体がだるかった。それでも腕を伸ばして携帯電話を握る。
「もしもし?」
「神崎君かね?」
 功一はその声に聞き覚えがあった。こずえの父の喜久雄だ。喜久雄の声は慌て、上ずっていた。
「大変だ、娘が、娘が……!」
「こずえさんが、どうしたんです?」
「手首を切って自殺しようとしたんだ!」
「自殺ですって?」
 功一の脳天に鋭い電気信号が一瞬のうちに駆け巡った。体内に残っていた眠剤が一気に抜け、脳の回路がけたたましく働き出すのがわかった。
「で、助かったんですか?」
「ああ、一命は取り留めたが、まだ意識が回復していない。気付いた時には、風呂場で……。もうちょっとで、手遅れになるところだった……」
「そ、そんな……」
 功一の胸が急に苦しくなり、真っ赤な焼けた鉄を投げ入れられたような痛みが走る。同時に、目にこみ上げてくる熱い涙。
 功一は昨日の電話の男の存在が、こずえの自殺の動機だと直感した。功一はこずえのために微塵の力にもなれなかった自分を恥じ、責めようとしていた。
「医者が言っていた。うつ病は回復する時期に自殺する危険があると……。娘の携帯電話を見たら、昨日、昔の男から電話やメールが入っていたんだ。とんでもない男だったんだ」
 喜久雄が電話越しに泣いていた。唇を噛んでいるのがわかった。
 功一はハッとした。昨夜のこずえの電話は別れを言うための電話だったのだ。
功一も以前、主治医から聞いたことがある。うつ病は急性期には自殺するエネルギーがなく、回復期に自殺願望が残存していると、自殺するエネルギーがうつの状態を上回り、衝動的に自殺してしまうことがあるのだ。こずえの場合も昔の男に無理な要求を突きつけられでもしたのだろうか、将来を悲観し、衝動的に手首を切ったのだろうと功一は推測した。
「どうして僕に、僕に相談してくれなかったんだ!」
「君も娘の恋人だろう。何でしっかり支えてくれなかったんだ?」
 喜久雄のその言葉は、功一の心臓にそのまま鋭い槍となって突き刺さった。功一の呵責の念は頂点へと達しようとしていた。
「兎も角、娘は今、厚木市立病院に緊急入院しているんだ。できれば君も娘の側に付き添ってやって欲しい」
「わかりました……」
 電話を切った功一は、携帯電話を耳に当てたまま、しばらく呆けていた。涙は自然と、止め処もなく流れ出してくる。功一の身体の中にこれだけの水分がよくあるものだと思う。功一は涙を流れるままにまかせていた。ただ、こずえの付き添いを許可してくれた喜久雄には感謝しなければならなかった。
 功一が着替え、車のキーを掴んだのは、どのくらい経ってからだろうか。功一はこずえの元へ行かねばならなかった。
 霞んだ目に水槽が映った。カサゴのいる水槽だ。それを見て功一は「あっ」と叫んだ。カサゴは口いっぱいにアオイソメを頬張り、頓死寸前でもがいていたのである。
「馬鹿な奴だな……」
 功一はカサゴを掴むと、その口からアオイソメを引き抜いた。すると、カサゴは逃げるようにして、岩陰に隠れた。

 功一はすぐさま厚木市立病院へと飛んだ。国道246号線の渋滞がじりじりともどかしく感じられた。
 病室には喜久雄も昌子も来ていた。
 こずえは左手首に頑丈なコルセットと包帯を巻かれ、横たわっていた。腕には輸血のチューブの黒味がかった赤が突き刺さっている。
「こずえ、こずえ……」
 しかし、こずえは深い眠りに落ちているのだろうか。功一の声に反応しない。
 功一は安らかに呼吸を繰り返すこずえの口元を見て、少し安堵感を覚えた。
(助かってよかった……)
 よく見ると、こずえの目の脇には涙の乾いた跡がある。それを見て心が締め付けられる功一であった。
「うーん、功一……」
 こずえがうわ言を呟いた。そして、薄っすらと瞳を開ける。
「こずえ!」
 一同が叫んだ。
「ああっ、私、生きてるの?」
 こずえがまだ紫色の唇を振るわせた。
「生きてる。生きてるとも!」
 喜久雄がこずえの手をしっかりと握った。昌子も功一もこずえを覗き込む。
「功一、私……」
「何も言うな、こずえ……。話すことがすべてじゃない……」
 乱れたこずえの髪を功一は、そっと撫でてやる。髪はさらさらとしていた。それは生気に満ちた質感だった。確かにこずえは生きていた。
「患者さんの意識が戻りました」
 看護師のその声で、医師が駆けつけてきた。
「よかったですね。じゃあ、手筈どおり転院になりますので……」
「転院?」
 医師のその言葉に功一は目を丸くした。
「精神病院だよ。前のリストカットは傷も浅く、問題なかったが、今度はまた自殺の恐れがあるのでね。警察や保健所も介入して措置入院になる可能性が高いんだ」
 そう語る喜久雄の表情は強張っていた。
「措置入院……」
 その言葉が功一の背中に重く圧し掛かっていた。

 こずえは厚木市郊外にある精神病院に転院となった。精神保健福祉法第二十九条による措置入院である。無論、閉鎖病棟で、当面の間は保護室に入れられることになった。基本的に面会謝絶で、外部の刺激はシャットアウトされていた。功一は喜久雄が主治医との面接で得た情報に頼るしかなかった。届きそうで届かないところにこずえがいる。そんなもどかしさを功一は感じていた。
 その日の午後も功一はこずえの様子を聞きに、こずえの実家を訪ねた。すると、家の前で二人の男が小競り合いをしてるではないか。
「沢木、いい加減に帰れ。こずえはここには居ないんだ!」
 喜久雄の罵声が飛んだ。沢木と呼ばれた男はアロハシャツにサングラスという、堅気とは思えない出で立ちでガムを噛んでいた。
「おら、こずえの奴を出せよ。居るのはわかってんだよ!」
「ここはお前の来る場所じゃない。娘はお前に殺されかけたんだ!」
 喜久雄が沢木の胸倉を掴んだ。だが沢木はそれを軽く払いのけると、悪態をつくように吠えた。
「うっせーな、じじい。俺は何もしちゃいねえよ。それとも何か、俺が何かしたっていう証拠でもあんのかよ!」
 功一にはその声と態度でわかった。沢木と呼ばれるアロハシャツの男が、あの夜、電話で功一に「俺はこずえの彼氏だよ」と嘯いた「あの男」であることが。
 吠える沢木の横へ、一部始終を見ていた功一が歩み寄った。そして、ボソッと囁く。
「こずえは俺の女だ。お前はとっとと帰ってビデオでも観てろ。このクズ野郎……」
 すると次の瞬間、沢木は真っ赤な顔をして怒り狂いだし、「この野郎!」と喚きながら、功一に殴りかかった。二発、三発とパンチが顔面にヒットすると、功一はよろけて倒れた。
「よさないか!」
 喜久雄が止めるのも聞かず、沢木は倒れ込んだ功一を蹴り飛ばし始めた。ドカッ、ドカッと鈍い音がする。
 功一は不思議と痛みをそれほど感じなかった。いや、以前にも似た痛みを感じたことがある。精神病院に入院していた頃、こずえを庇って初老の患者に肘鉄を食らわされた時だ。
(こずえが腕を切った時は、もっと痛かったはずだ)
 そんなことを功一は思ったりもした。その最中にも沢木は功一を蹴り続ける。
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸