カサゴ
カサゴはバケツの中で鰓を大きく張り、とぼけた瞳でバケツの中を見回していた。
「ハゼは天ぷらにしよう。今日、うちでちょっとビールでも飲みながら、夕飯食べないか?」
こすえがニコッと笑い、「いいの?」と尋ねた。功一は「もちろんさ」と言い、竿を振った。もう少しばかりハゼが欲しい功一であった。
功一の実家には水槽がある。その水槽の中に十センチ程のカサゴが泳いでいた。先日、功一とこずえで大磯港へ行き、釣ってきたカサゴだ。餌は釣具店で買ってきた、アオイソメを与える。水槽の中に岩陰を作ってやると、カサゴはそこに隠れ、餌を食べる時にだけ、そこから出てくる。口いっぱいにアオイソメを頬張る姿が、何とも愛嬌があり、可愛らしくもあった。
功一は既に休職期間に入っていた。職場には診断書を送付し、休職の辞令が出ていた。折り合いの悪い直属の課長とは電話で一回、やり取りをしただけで済んだ。今は先日までの葛藤が嘘のように、心穏やかだ。取り敢えずは復職という現実から逃げているのかもしれない。しかし、今の功一にとって、休職期間は岩陰に隠れるカサゴのようなものであり、身を守るために必要な時間だった。
功一はカサゴを眺め続けた。カサゴは大きな口を一杯に開けて、アオイソメを頬張っている。一度では全部呑みきれず、口からアオイソメの尻尾が覗いていた。
(そういえば、こずえからメールの返信が来ないな……)
今朝、功一はこずえにメールをしたが、未だに返信がない。これほど返信がなかったことは今までなかった。メールを打てば必ず直ぐに返信がきた。それに、携帯電話に電話をしても出ないのだ。
功一は携帯電話を弄った。こずえの携帯電話に掛けるが、やはり繋がらない。仕方なく、こずえの実家に掛けることにした。
「もしもし、野原ですけど」
電話に出たのはこずえの母、昌子だった。
「すみません、神崎です。こずえさん、いらっしゃいますか?」
「あら、あなたと一緒じゃなかったの?」
「ええ、すみません。じゃあ、また携帯電話の方へ掛けてみます」
功一の心の中に焦りのような不安が過ぎった。これほどこずえと連絡が取れなかったことは初めてだった。だが、こずえは今どこにいるのかわからない。功一は車のキーを掴んだものの、どうしたものかと家の中をウロウロと歩き回り、まるで動物園の熊のようになってしまった。
そんな功一の様子を見て、母の律子が言った。
「何やっているのよ。落ち着かないわね」
「こずえと連絡が取れないんだ」
功一が爪を噛む。
「あのねぇ、こずえさんは功一の所有物じゃないのよ。少しくらい連絡が取れないからって……。深刻に考えすぎよ。病気に良くないわよ」
律子のその言葉に、功一は自分の水槽の前へと戻った。カサゴはもう、アオイソメを全部食べきっており、また岩陰に身を潜めていた。
功一は母の言葉を受けて、自分とこずえとの関係について考え直していた。改めて考えてみると、功一は随分とこずえに依存していたと思う。仕事を休んでいる今、まるで自分の存在意義そのものであるかのような、依存の程度であった。
(こずえは俺に依存しているのだろうか?)
ふと、そんな疑問が功一の中に生まれた。いつも明るく、功一を支えてくれるこずえは、自分に依存しているような状態だとは思えなかったのである。そう考えると、少しの間連絡が取れなくても、こずえにとっては大きな問題ではないのかもしれないと功一は思い、自分を納得させることにした。
その日の晩は携帯電話を枕元から少し離した場所に置き床に就いたものの、なかなか寝付けなかった。灰皿は山のようになっていた。
二十三時に携帯電話が鳴った。ディスプレーを見るとこずえからの着信だった。
「もしもし、こずえ?」
だが、返ってきた声は野暮ったい男の声だった。
「神崎功一っていうのはお前か?」
「誰だ、あんた?」
その男の声に聞き覚えはなかった。功一の身体は半ば眠剤に支配されつつあったが、この時ばかりは頭の中が明瞭になっていくのがわかった。同時に心臓の鼓動が高鳴る。功一の頭の中に喜久雄が言った「あの男」の存在が甦った。
「俺はこずえの彼氏だよ」
電話口の向こうで「嘘よーっ!」と叫ぶこずえの声が聞こえた。功一は直感的にこずえが以前に付き合っていた男であることを理解した。そう、「あの男」である。
「馬鹿な。こずえと今、付き合っているのは俺だぜ」
「くくく、俺とこずえは深い仲で結ばれているのよ。お前が入り込む余地なんてないぜ」
男は勝ち誇ったように笑った。功一は身体中の血液がすべて頭に上っていくのがわかった。
「それにこれ以上、こずえと関わると怪我するぜ」
こずえの「やめてーっ!」という声が聞こえた。
「やれるもんなら、やってみな。それより早くこずえを開放してやれ。嫌がっているじゃないか」
「今日は久々にいい声色を聞かせてもらったぜ。これから毎日、お楽しみだぁ!」
男は高笑いすると、一方的に電話を切った。功一の胸の中にどす黒い殺気と灼熱の嫉妬の念が対流していた。眠剤の効果は既になくなっていた。
次に功一の携帯電話が鳴ったのは二十六時過ぎだった。無論、相手はこずえだった。
「ごめんね、こんな時間に……。さっきはごめんなさい」
「いいよ、ずっと連絡を待っていたんだ。一体どういうことなんだ?」
功一は責めるふうでもなく、なるべく落ち着いて喋るよう心掛けたつもりだった。ここでこずえを責めても仕方のないことは分かりきったことだった。
「ごめんね、功一の声を聞きたかったの。ごめんね」
「あの男、誰なんだよ?」
「元カレ。別れたはずなんだけど、よりを戻そうって言って、強引に……」
「なんで会ったんだよ?」
つい功一は語気を強めてしまった。すると、携帯電話の向こうの空気がすすり泣いていた。
「もう、あいつの誘いには乗るなよ」
こずえは「うん」と気のない返事を返し、ただ「ごめんね」と繰り返す。
「はぁーっ……」
功一は深いため息を漏らした。
「今日は遅いから、明日また話そう。明日会おうよ」
「うん……」
こずえは力なく答えた。その声にはまるで生気がない。功一はこずえの身に、何かよほどのことが起こったのだろうと推測する。だが、こずえは語ろうとはしない。
「じゃあ、お昼前に迎えに行くね」
「ありがとう……」
「おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
こずえの声は震えていた。いつも、功一が落ち込んでいる時には明るく励ましてくれるこずえだが、今日は「ごめんね」しか言わなかった。功一はやるせない仕草で電話を切った。こずえと連絡が取れたことは良かったが、どうも態度が気に掛かる。まるで魚の骨を喉に引っ掛けたような気持ちだ。
(俺はそんなに頼りないかなぁ……)
そんなことを心で呟きながら、功一は煙草を取り出すと、おもむろに火を点けた。フーッと重いため息を吐き、既に山のようになった灰皿に、トンと灰を落とす。功一は半分も吸わないうちに、煙草をもみ消した。そして、横になる。
眠剤の影響で身体だけが異様にだるい。功一の瞳は虚ろだった。だが、眠れるわけではなかった。