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カサゴ

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 功一のはらわたは煮えくり返っていた。緊張が怒りに変わっていった。人事課長には何気ない一言かもしれない。だが、功一を傷付けるには十分すぎる言葉だったのである。
「まあ、君も周囲からサボっていると思われないよう、気をつけたまえということだ」
 その言葉は功一に追い討ちをかけた。とてもこれから復職を目指そうとしている者に掛ける言葉ではなかった。
(こいつ、俺がサボっていると思っているのか……! 俺はこんなに苦しんでいるのに!)
 功一の中に憎悪の炎が込み上げてきた。こんな奴に人事を握られている自分が情けなかった。人は言う。「宮仕えは我慢が肝心」だと。しかし、人事課長の口から発せられる言葉は、うつ病にまったく理解を示さず、力でねじ伏せようとする、圧力以外の何物でもなかった。
「私はれっきとした病気なんですよ。あなたの言葉で更に病気が悪化したような気がしますよ。診断書は書き直してもらって郵送しますから、あなたとはこれ以上、やりとりしたくないですね」
 功一はそう言い棄てると、踵を返した。功一は思う。復職は「差別と偏見との戦い」だと。その背中に「今後のリハビリ勤務についてまだ話があるんだ」という人事課長の声が投げかけられたが、功一は無視して歩き続けた。一刻も早く市役所を抜け出したかった。
 功一は自分の部署にも顔を出さず、そのまま帰宅した。心の中では赤いマグマが噴出していた。よっぽど怒りのオーラが噴出していたのだろうか、道行く人々が功一を避けているようだった。
 その日、実家に帰った功一はまた頓服薬を飲んだ。しかし、怒りは収まらなかった。
 ここのところ万年床になりがちな枕を何度も叩きのめした。「畜生、畜生!」と喚きながら。心配した母の律子が駆け上がってきたが、功一は「心配要らないよ。ムシャクシャしているだけさ」と笑顔を作ってみせた。だが、頬の筋肉が強張っているのが、功一にもよくわかった。

 翌朝、こずえから電話が掛かってきた。昨夜はほとんど眠れなかった。異様に身体がだるかった。身体の中に鉛が入っているようだった。うつがひどい時はいつもこうだ。
「おはよう、功一」
「ああ、おはよう……」
「どうしたの? 全然元気がないね」
「ああ、昨日、人事課長に厭味を言われたんだ。そうしたら、怒りの感情がコントロールできなくなってね。その後は落ち込んでいるんだ」
「そんな嫌なヤローのことなんか忘れて、釣りにでも行こうよ」
 こずえの声は明るかった。その明るさに少し救われたような気がする功一だったが、身体のだるさは如何ともし難いものがあった。
「ごめん、今日はあんまり動けそうにないよ」
「そう……」
 寂しそうにこずえが呟いた。
「なあ、俺、なんとかアパートに行くから、できれば俺のアパートに来てくれないか?」
「いいよ。アパートに着いたら電話頂戴」
「うん」
「あんまり落ち込まないでね。どこにでもいるから、嫌な奴って……」
「うん、ありがとう」
「私がついているからね。支えあっていこう」
「うん」
 功一はこずえの言葉に癒されていた。だからこそ、もっと癒して欲しかった。
 功一はそのまま上着を羽織ると、厚木のアパートに向けて車を走らせた。こずえの言葉で少しは気が晴れたような功一だった。今はこずえの愛が欲しかった。こずえに今の自分を受け止めて欲しかった。こずえに思い切り抱きしめて欲しかった。

 翌日は受診の日だった。その日、診察室は混み合っていて、功一は随分と待たされた。それでも、待合のフロアにある雑誌をパラパラと捲りながら、自分の順番を待った。やっと自分の名前が呼ばれたのは昼近くになってからだ。
 功一は主治医に人事課長から言われたことをそのまま報告した。
「はあ、まだそんな感じなんですね。やっぱり市役所と言えど、まだ復職するには難関が多いですね」
 主治医が同情するように言う。
「まったく頭にきますよ」
 功一は主治医に怒りをぶつけた。
「まあ、どの職場でもうつ病を百パーセント理解してくれるところはないですよ。みんな差別や偏見を乗り越えて復職していくもんです」
「やっぱりそうなんですかねぇ……」
「まあ、上司の厭味に耐えろとは言いませんが、復職のハードルが高いところはそこなんですよ。まだ神崎さんの中でその厭味に耐えられるエネルギーが溜まっていないということですよ」
 主治医はサラッと言って退けた。功一は主治医を見つめ続けた。
「そう言えば、最近釣りには行ってますか?」
「いえ、退院後に一度、行ったきりで……」
「まあ、ストレス発散に釣りなんかいいですよ。是非、行ってきたらどうですか?」
「はあ……、是非、行きたいですね。彼女とも行こうと言っているんですよ」
 功一が照れたように笑った。主治医もニヤリと笑った。

 その二日後、功一とこずえは大磯港にいた。功一はまだ気分が晴れなかったが、医者が「釣りはうつ病に効く」という言葉を胸に、釣り糸を垂れていたのだ。こずえは功一のために弁当を作ってきてくれた。そんなこずえの好意が、素直に嬉しい功一であった。
 大磯港は湘南有数の大きな漁港である。その日は平日にも関わらず、釣り人が多かった。
 功一は近くの釣具店でアオイソメという虫を購入し、岸壁の縁を狙って釣り糸を垂れていた。さすがにこずえは虫餌が苦手のようで、功一が餌を付けてやった。置き竿にして、こずえとの会話に夢中になる。釣果などどうでもよかった。こずえと楽しいひとときを過ごせればそれで良かった功一である。
「海って癒されるなぁ」
 功一がしみじみと言う。足元の水中には小魚が戯れていた。
「何か、水の中を覗いているだけで、ワクワクするわね」
「馬鹿な人事課長のことも忘れられそうだよ」
 そんな会話をしていると、こずえが小さな魚を抜き上げた。
「ハゼだね。天ぷらや唐揚げにすると美味しいよ」
「へえー、これがハゼかぁ……」
 こずえが繁々と飴色の魚体を眺める。そして、針を外すと、バケツの中にハゼを放った。ハゼはとぼけた顔をしながら、バケツの底へ張り付いた。ハゼは胸鰭が吸盤のようになっており、岩などに張り付くことができる魚だ。
 功一の竿にもプルプルと魚信がきた。抜き上げると、やはりハゼだ。
「今日はよくハゼが釣れるみたいだね。取り敢えず、ハゼでもいいから釣ろう」
「きゃー、またきたー!」
 こずえがまたハゼを抜き上げた。功一はそんなこずえの様子を目を細めて眺めていた。
「カサゴは釣れないかな?」
 功一もこずえもカサゴには思い入れがあった。だから、ハゼを釣りながらも、カサゴが釣れないものかと、岸壁縁を狙っていたのである。岸壁の切れ目や消波ブロックの中にカサゴはいる。それを狙っていたのである。しかし、釣れてくるのはハゼばかりだ。
 そんな折、こずえの竿がゴツゴツと引き込まれた。
「きゃー、何かゴツゴツしてるぅ……!」
 こずえが抜き上げたのは体長十センチ程のカサゴだった。
「やったね、カサゴだ」
「でもちっちゃいね。可愛らしい感じ」
「もっと大きければおかずになるんだけどなぁ。うちに水槽があるから飼ってみようかな」
「じゃあ、これ、私だと思って可愛がってよ」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸