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星の流れに(第二部 南方戦線)

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9. 敵地



 昭和十九年十月、レイテ沖海戦で日本軍が敗れ、マッカーサー率いる米軍にレイテ島再上陸を許した。
 それまでは戦地とは言えルソン島は日本の統治下にある安全な土地での勤務だった、しかしレイテ島が取られたと言うことはマニラ湾を始めとしてルソン島の主要部への攻撃が可能になったということだ、今までだって全く安全とは言い難かったが、今後は敵軍が迫る中での勤務になる。
 敵軍が迫っていることを受けてケソン病院は閉鎖が決まり、その年の暮れ、幸子達はルソン島北部のバギオに移動した。
 
 だが、年が明けた一月の下旬、そのバギオの病院が集中爆撃を受けた。

 目も開けていられないほどの爆風と砂塵の中、幸子たちは自力で動ける患者を防空壕へと避難させ、自らも命からがら防空壕に逃げ込んだが、負傷者や搬送が必要な患者をそのままにしておくわけには行かない、爆撃の合間を縫っては外へ走り出し防空壕へと引きずり込む。
 いつまた爆弾を落とされるのかわからない、そして爆撃の合間には機銃掃射の波状攻撃。
 それまでも戦地で勤務していると言う自覚はあった、海岸線の病院が攻撃されたと言う情報もあったし実際そこで負傷してケソンへ移送された兵士の看護もした。
「どうして? 病院なのに、屋根に大きく赤十字も描かれてるじゃないの」
 同期の和子はそう言って恐ろしさに泣きじゃくる、正直、幸子も同じだった。
 命の危険を感じる、と言った次元ではない、明らかに敵軍は自分たちを殺そうとしているのだ、いつ爆弾に吹き飛ばされるかもわからない、いつ銃弾で打ち抜かれるかもわからない、その恐ろしさに幸子も震えた。
 その時、幸子は悟った。
 これが戦争なのだと……。
 死の恐怖に晒されるのは兵士ばかりではない、民間人も同じなのだ、戦争とは殺し合いなのだとは悟っていた、だがもうそれに留まらない、戦争とは『皆殺し』に他ならないのだと……。
(爆弾に吹飛ばされるくらいなら、植民地にされたって戦わなかったほうがましだったかも……)
 そんな思いもよぎる。
 その時、幸子の脳裏に浮かんだのは兄の姿、兄の言葉だった。
 兄はこの戦争は勝ち目が薄いことを悟っていた、それでも日本を、故郷を、家族を守りたいと言い残して出征して行ったのだ
 兄が、兵士たちが戦っている以上、自分はこの仕事を離れるわけには行かない……。
 その思いだけを支えに、爆音が響き地が震える中、じっと防空壕で耐え忍んだ……。

 攻撃が止み、防空壕から出てみると病院はすっかり焼け落ちて跡形もなくなっていた。
 そして、医療班の約三分の一に当たる八名の姿がない、負傷して動けなくなっているのなら夜が来てからでは遅い、夕暮れの迫る中、幸子たちは捜索を始めた
「うっ……」
 最初に幸子が見つけたのは下半身が吹き飛ばされた同僚の遺体だった、最前線の医療現場で酷い傷を負った兵士やその死を見慣れているはずの幸子でさえ思わず吐き気を覚えて口を手で覆った。
 その顔には最後の絶叫が張り付いている、安らかな最期とは全くかけ離れた、無残な死……、一瞬、その顔が自分に被り、気が変になりそうなほどの恐怖を感じた。
「誰か見つけたの?……うっ……」
 後からやってきた和子は嘔吐をこらえきれなかった、吐く物など胃の中には何もない、ただ黄色い胃液ばかり、和子を介抱しているうちに幸子もとうとう吐き気をこらえきれなくなった……。

 それでも和子と二人で上半身だけの遺体を担いで防空壕の前に戻ると、黒焦げになった遺体、ほとんど白骨化した遺体が運ばれていた、その他の遺体は発見できなかった、跡形もなく肉片になってしまったのだろう。
 とにかくお経を読める上官が供養し、埋めるだけは埋めた。
 その間、誰一人として言葉を発しなかった、幸子自身も何かしゃべろうなどと言う気は起こらなかった、しかし、誰の心にも浮かんだ思いは一緒だったろうと思う。
(明日は我が身かも知れない……)と。

 医療班にも犠牲者が出て、病院の建物はなくなってしまったが、患者がいなくなったわけではない。
 幸子たちはいくつかの班に分けられて分院に移った。
 建物は打ち捨てられた民家を使用したが、昼間は爆撃される怖れがある。
 夜は建物の中で眠るが、昼間は大樹の下での医療活動となった、しかし、そこでも機銃掃射を受けてしまう。
 逃げたい……死にたくない……、人として当然の思いだ。
 しかし患者には機銃掃射から逃げる術がない、幸子たちは赤十字の看護婦であると言う誇りと患者を見捨てて逃げるわけには行かないと言う思いで覚悟を決め、患者と行動を共にした。
 
 四月、ついにバギオからの撤退命令が下った。
 行先は告げられず、とにかく兵士の後に続いて徒歩での行軍となった。
 患者を引き連れての行軍、医療班も衰弱している、四日かけてようやく北方約三十二キロの地点に到達したが、そこに建物があるわけではない、患者ともども松林の中での野宿だ。
 
 その頃から米軍による降伏勧告のビラが撒かれるようになった。
 そして、そのビラで東京が大空襲受けたことを知った。
 兵士からはビラの内容を信じないように言われていたし、班員の中にもそれを信じないものも多い。
 しかし、幸子にはそれがまるで嘘だとも思えなかった。
 レイテ島は取られ、ここルソン島も敵の手に落ちかけている、グアムやサイパンが占領されたと言う噂も流れている。
 兄の話からして、グアム、サイパンが敵の手に渡ればB29による本土爆撃が可能になるらしい、そしてこのフィリピンが落ちれば日本軍は補給路を絶たれることになる。
 だとすれば、東京が空襲に晒されても不思議はない、東京が焼け野原になった、と言うのは信じたくないが、可能性としては否定できない、しかもかなり高い確率で……。

 三十二キロ地点でしばらく野営した後、やはり四日かけて今度は五十二キロ地点へ移動した、今度は野営ではなく民家を使用できたが、やはり昼間は空襲の怖れがある、昼は林に潜み、夜は宿舎で寝る、そんな勤務が続く。
 この頃から班員の健康状態が悪化し始め、発熱や疲労で倒れる者が続出した。
 ここまで看護婦たちを指導し、まとめ上げ、鼓舞して来た婦長もとうとう倒れてしまった。
 症状から腸チフスが疑われたが、婦長は既に腸チフスを経験しており免疫を持っているはず……ならば別の病気だが、それを特定することもできない。
 それでも「あなたたちを無事に内地に連れ帰らなければ」と言い続け、病の床でも若い看護婦たちの健康状態を気遣い続ける婦長だったが、日に日に弱って行くのは目に見えてわかる。
 患者もこの行軍に耐えきれなかったのか、毎朝のように死亡が確認されて行った。
 死の恐怖を与えるのは爆弾や銃弾だけではなくなってきた、得体の知れない風土病、飢え、衰弱……もう患者に限らず班員も明日の命もわからない状況に追い込まれつつあった。

 そして、これまで水泳で培った体力で何とか頑張って来た幸子も、原因不明の高熱と激しい腰痛に見舞われ、ついに倒れてしまった。