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　宏美と別れて、一人でバスに乗っていて、それから……
『沙里葉（さりは）！』
　口元まで沈みかけていた暖野は慌てて身を起こそうとした。勢い余って転倒しそうになる。
　少しのぼせ気味になっていた。
　風呂から上がり、キッチンでいつものように牛乳を飲んでいると、珠恵が声をかけてきた。
「風邪じゃないの？」
「うん、大丈夫」
　暖野は微笑んで見せた。
「何か、軽く食べる？」
「いらない。牛乳でお腹ふくれるから」
　実際、空腹感は全くなかった。胃と喉の間に何かが詰まっているようで、何も食べられそうになかった。その代わり、やたらと喉が渇いていた。
　暖野は立て続けに３杯、牛乳を飲んだ。
「空きっ腹に冷たいもの飲んだら、お腹壊すわよ」
「平気よ」
「ほんとに？」
「うん。学園祭のことで、急に役を任されちゃって参ってるんだ。それでいろいろ考えてたら、疲れちゃった」
「そう……それならいいけど」
　暖野は牛乳の紙パックを冷蔵庫にしまった。
「もう、寝るわね」
　顔を上げて、暖野は言った。
「そうしなさい。なんだったら、明日は学校休む？」
「大げさね」
　暖野は笑った。「大丈夫よ」
「そう……？」
「あ――」
　リビングを出かけて、暖野は珠恵の方を振り返る。「お父さんには謝っといてね。温泉、楽しみにしてるって」
「ええ――まあ、それはいいけど……」
　母の言葉を背に、暖野は自室へと戻った。
　ドアを閉めて、その場で立ち尽くす。もう動くのすら億劫だった。
　机の上には、例の懐中時計がある。
「さりは……」
　暖野は呟いてみた。
「沙里葉……」
　ベッドに潜り込んでも、なかなか眠りは訪れなかった。体は休息を求めているのに、頭のどこかが妙に冴えて、それを許さなかった。
　あの街に行っていたことは、確かなことなのだろうか。
　疑いようのない事実として、二つの時計のずれがある。
　でも――
　本当にそんなことが起こりうるのだろうか、とも思う。
　こんなことを誰かに話したとて、正気を疑われるのがオチだ。
　悶々としながら何度も寝返りを打ち、それでも眠れないと悟った暖野は、やおら布団をはねのけて起き上がった。
　眠れないのに寝ようとする努力ほど無駄なものはない。
　暖野は机の電気スタンドだけを点けて、時間の進みすぎた懐中時計を見下ろした。
「マルカは、どうしてるんだろう……」
　ふと、そんな思いが過る。
　彼は、暖野のいない今となっては一人きりなのだ。どこでどうしているのか、気がかりになった。
　暖野は慌てて首を振る。
　関係ないじゃん！　今日会ったばかりなのに――
　今日――？
　確かに、今日ではあるだろうが、暖野にとっては今日ではあっても、彼にとっては……
『私ってば、何考えてるの!?』
　何はともあれ戻っては来られたのだし、このまま普通に時が過ぎてくれれば何も問題ないはずだった。
　夜の住宅街は静かだ。ほんの時たま犬の吠えるのが聞こえるくらいだった。
　部屋は冷えていた。にも拘らず、体は火照っている。ここ数日、ずっとこんな感じだ。母の言うように、やはり風邪なのだろうかと暖野は思った。
　カーテンを半分だけ開けて、外を見る。
　道を歩いている人は誰もいない。
　考えても無駄だとは分かりつつも、思考はすぐに今日の出来事へと戻ってしまう。
　どこかでまた、犬が吠えている。
　ベッドの中ではあれほど眠れなかったのに、今になって猛烈に眠くなってきた。暖野はいつしか机に突っ伏して眠り込んでしまったのだった。灯りも点けっぱなしのまま。