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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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忘却の箱

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その手のぬくもり


 そう、あれは私がまだ二十代だった頃。
 会社の同僚で、少しだけ仲が良かったひとがいた。
 少しだけ年上で、よく相談に乗ってくれて。
 それでも付き合ってるとかじゃなく、ただ話してると気が楽っていうか、ただそれだけだった。
 いつから、そのひとと親しくなったのかは、よく覚えていない。
 入社以来ずっと同じ社屋にいたのに、それまで気づかなかった。
 部署が違うというのもあったと思う。
 何年も同じオフィスにいたのに、親しくなる以前にそのひとと出会っていた記憶は、ないような気がする。
 それが、何の拍子でか、話すようになった。
 それがいけなかったのかとも、今は思う。
 部署も立場も違うから、帰る時間が一緒になるのは週一くらい
 仕事帰りに飲みに行って、ぐだぐだ愚痴を話して。
 うんうんって聞いてくれた。
 それは、周りから見たら、たぶん付き合ってることになってたんだと思う。
 でも、怖かった。
 それまで、誰とも付き合ったことなんてなかったし。
 振られてばっかりで、そういうことに慣れてなかった。
 でも、それが理由じゃないのは、今は分かる。
 怖かったから。
 言い出すのが。
 そうなのだろうか。
 それも違う、と思う。
 言い出すのが怖いのではなく、避けていた。
 一線を超えることを。
 私はその人と、手を繋ぐこともしなかった。
 一緒に食事して、鍋とか食べたりもしたけれど。
 同じペットボトルを回し飲みもしたけど。
 直接に触れることはしなかった。
 触れたいとも思わなかった。
 友達だと思っていた。
 たぶん、その関係を壊したくなかったのだと思う。
 友達として、ずっと話を聞いてほしかっただけ。
 実際、私はそのひとに、友達でいようねと言っていた。
 そのひとは、時々寂しそうな顔をしてたけど、私はそれを分かってはいたけど、普通に相談に乗るみたいな感じでしか受けとめなかった。
 いつも私の話を聞いてくれてるんだから、たまには私が聞いてあげる。
 そんな風に、他人事みたいに装うことで、ごまかしていた。
 ただ何となく会って、何となくおしゃべりして。
 そんな日々が、いつまでも続くと信じていた。
 ある日、その人に辞令が出た。
 地方への左遷。
 社内でも噂になるほどだったけど、私はもう一つ、そのひとのことについて知っていた。
 外資系の会社からの引き抜き。
 そのひとの左遷の理由が濡れ衣だとは、誰もが知っていた。
 知っていて、誰も何も言わなかった。
 私もその一人。
 でも、そのひとは決めていた。
 引き抜きに応じるということを。
 すでに決まっているということも。
 一か月。
 一か月の研修後、アジアの支店に配属される。
 そのことを、私はいつものように居酒屋で聞いた。
 よかったねと言った。
 その会社がどんなところなのか、どんなポストに就くのか、主にそのひとのことばかり聞いていて、私のことは、あまり話した記憶がない。
 ほどなく、そのひとは会社を辞めた。
 そのひとのいないオフィスは、恐ろしく他人行儀に見えた。
 休日は合わなかったけど、転職先の会社の支社は同じ町にあるから、それまで通り週一で会うことは出来た。
 その度に、新しい職場のこととか、色々聞いた。
 そのひとが話したからではなくて、私から聞いた。
 そのひとは、すごく楽しそうに仕事のことをしゃべってくれて、それだけで私は嬉しかった。
 そのひとは私のことを気遣ってくれて、うまくやっているかって聞いてくれた。
 私はたぶん、ふつう、くらいしか答えていなかったと思う。
 その時の私が何を言ったのか、本当に覚えていないから。
 覚えているのは、そのひとが何をしゃべったか、どんな表情だったか。
 一か月しかない時間は、そのまま過ぎて行った。
 最後の週、そのひとは初めて自分から強引に私を誘ってくれた。
 まだ仕事中だったから、適当にOKして、電話を切った。
 午前中から会うのは初めてで、少し緊張していた。
 約束の時間より早めに行くと、そのひとはもう来ていた。
 おはよう、って言ったんだろうか。
 久しぶり、だったか。
 お互いに少し、違う雰囲気で固くなっているような。
 お腹減ってないかと聞かれて、いきなり? とか。
 そんな感じで始まって。
 それまで仕事帰りに、どこ行こうかくらいしかしゃべってなかったから、きっかけが上手く掴めなかった。
 それでなんとなくいつもの雰囲気になって、喫茶店でお茶して。
 こんな所があったのかってびっくりするようなレトロなカフェで、クラシックがかかっていた。
 ここで一緒に過ごしたかった、そのひとは言った。
 特別な場所だったけれど、長く訪れていなかった店だと。
 雰囲気は変わってないと、そのひとは言った。
 なんだかデートのようで気恥ずかしかった。
 ケーキもお薦めだって言って、チーズケーキを頼んで。
 私だけ太らせるつもり?
 とか冗談言って、結局ふたり分注文して。
 店を出て、町をぶらついて、帰り際、駅のエスカレータに乗ったとき、そのひとは私の手を握って来た。
 隣に立っていたから、逃げられなかった。
 最初は怖かった。
 でも。
 はじめて、そのひとの温もりを感じた。
 暖かくて、大きな手。
 人の手って、こんなに暖かかったんだって思った。
 そのひとを、もっと感じていたいと思った。
 だから、私も、握り返した。
 その手を。
 エスカレーターを降りて、改札へ向かうまでに、そのひとは私に言った。
 一緒に来て欲しい、と。
 私は笑って、無理と言った。
 そう、やっぱり怖かったから。
 一緒に行ったら、もう逃げられないから。
 でも、この温もりがもっと欲しくて。
 人目もはばからずに、初めてキスした。
 濃密な。
 唇を割って入ってくる舌に、私は抵抗できなかった。
 ただ、なされるままに奪われ、そして私からも彼を貪った。
 そのあと、私たちは改札口で、いつものようにさよならをした。
 これからもずっと、同じように会える、そんな幻想を抱いて。
 それが、そのひとと直接会った最後。
 何度か電話はあった。
 適当に受け応えして、切ってしまった。
 フライトの時間をメールで送って来てくれた。
 でも、私は気をつけて行ってらっしゃいとだけ返した。
 その日、私は見送りには行かなかった。
 仕事は休んでいた。
 行こうと思えば行けたはずなのに。
 あのひとは待っていてくれたはずなのに。
 私は部屋で一人過ごしていた。
 明かりもつけずに、ただぼんやりと。
 そして、あのひとは行ってしまった。

 今だから言える。
 私は、あのひとが好きだった。
 ずっと一緒にいたかった。
 でも、ごめんなさい。
 本当に、怖かったから。
 あなたに本気で恋して、それが終わるのが。

作品名:忘却の箱 作家名:泉絵師 遙夏