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人生×リキュール アブサン

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 普通ならこんなところで怪しげなホームレスが飲んでいる怪しげな酒なんて目もくれなかっただろう。ところが、今夜の彼は半ばやけくそだった。自分の人生に対して。これまでの自分がしてきた選択に対して。今、自分に残ったものに対して。すべてに対して疑問だらけだ。だからだろうか。普段はしない行動をしてみたくなったのだ。
 普段嗅がない匂いを辿って、普段立ち寄らない場所に足を踏み入れた。極めつけが、この緑色の酒の誘惑だ。一杯千円はちと高いなと思うが、ちゃんとしたバーでもそのくらいはするだろうと、自分への言い訳を用意した上で千円札を取り出した。
 男は代金を受け取ると、ハウスに潜り、すぐに這い出てくると、テーブルの上にガラスのゴブレットと、虫食いだらけの木の葉のような穴の空いた銀色のスプーンを並べた。次いで角砂糖を取り出してスプーンの上に乗せる。見覚えのあるセット。これは何だったかと、彼は記憶の糸を必死に手繰り始めた。そうして自分は、若い頃、バーテンダーコンペティションに何度も出場するほどの腕を持つ一端のバーテンダーだったことを、今更のように思い出した。
 ゴブレットに宝石のように輝く液体が注がれる。薬草系リキュールだとわかった。
「あんたは運がいい。こいつぁ滅多にお目にかかれねぇ上物よ」
 男は、すきっ歯の口でにやあっと笑いながら、グラスの上に角砂糖を乗せたスプーンを設置。そして、取り出したスポイトで、水を一滴ずつ角砂糖の上に垂らし始めた。一滴毎に白濁して香り立つ神秘的な液体に魅入りながら、彼は思いの淵に佇む。
 運がいい・・・このおれが?
 これまでの人生で、ついてると思った記憶を一つも掘り起こせないのにか?
 いや、わからないな。人はいい思い出ほどすぐ忘れて、悪いことばかりを覚えているというから、もしかしたそんな瞬間が数え切れないほどあったのかもしれない。だが、と彼は思う。運がいい割には、この体たらくだ。
 彼の出世は遅かった。不条理な尻拭いばかりの主任時代を経て、40後半になってようやく昇進した課長職。ところが、部下たちは掌を返したように冷たくなり、隔たりに耐えながらの毎日だ。そして、巣立った子ども達からの音沙汰はなく、妻は日々せっせと浮気に励んでいる。必死に働いて堅牢に築き上げてきた家庭が、実は、脆い砂でできていたのだとやっと思い知る。気付いた時既に遅し。砂は崩れ始めていて、自分の帰るべき安心できる場所など、どこにも存在しなかった。
 彼は、角砂糖から零れ落ちる甘い雫が、白い衣を纏いながら白緑色の液体に溶けていく様を見守る。
『僕は運がよかった。君は運が悪かった。ただ、それだけのことだ』
 どこからか、若い男の声が聞こえた。彼はその声に聞き覚えがあることを思い出す。
 そんな彼の前に、男はすっかり月光色に変わった酒を溶け残った角砂糖が乗ったスプーンごと置いた。
 好みでと言われた通りに、まずはスプーンを脇に避けてグラスを手に取る。先程から漂っていた、えも知れぬ癖があるが繊細な香りが、強烈に彼の鼻腔から体内に侵入してきた。次いで、一口目を飲む。死んでいた感覚が目を覚ますような強烈な酒だ。
 歯磨き粉のような強いミントの香りに混ざるアニスやコリアンダー、カモミール、オレガノ等の香りの強い薬のような苦み、なんて度数の高い酒なんだと思うのだが、喉元を通ると爽やかさに巻かれてその事を忘れ、また口をつけてしまう。病み付きになりそうだ。だが、酒の名前はわからない。
 ここまでの強烈な酒、一度飲んだら忘れないはずなのだが。バーテンダー時代には、あらゆる種類の酒を試し、猛勉強した知識をひけらかしていたことを思い出した彼は、加齢とはつくづく悲しいものだなと情けなくなった。いや、知識など所詮は砂の一部だ。器が古びて脆くなれば隙間から溢れていってしまう。
 気付けばグラスは空になっていて、彼は再び財布を取り出していた。
 男は、溶け残った砂糖を舐めていたが、彼が差し出した札を見ると、にやあーと卑しく笑った。
 準備をするために再びハウスに潜っていく男の後ろ姿を、ぼんやりと見ている彼の脳裏に突如鮮明な映像が浮かんだ。
 整頓されたボトル棚。間接照明に彩られた店内。高級そうな服を身に纏い談笑する客の背中。
 カウンターの中でリズミカルにシェーカーを振っている希望と、自信に満ち溢れた年若いバーテンダーたちは、蝶ネクタイをキリッと結び、黒のベストと白いワイシャツがコントラストになっている。
 粉雪のような塩に縁取られたカクテルグラスに、シェーカーの中味を華麗に注ぎ、塩に触れないように慎重に提供している。
 マルガリータだ。
 テキーラ、ホワイトキュラソー、レモンジュースとシンプルな材料ながら、シェーカーの振り方や強さ、温度によって味が全く違うものになってしまう、基本であるが故に難しいとされるマルガリータ。
 そうだ。マルガリータは、おれの十八番。指名をもらうほど得意なカクテルだった。
 這い出てきた男が、先程と同じようにスプーンの上に角砂糖をセットした。グラスに酒が注がれる。甘美な雫がゆっくりと落下していく。その一滴ごとに、彼の眠っていた記憶が一つ又一つと花開くように思い出されていくのだった。
 氷を削る音。巨大な氷を等分にして丸く削っていく。
 大きな丸氷はロック用で、小さな方がコリンズグラス用の氷だ。溶けにくいように必ず氷は丸くしていた。これも、ゆっくりやっていると手の温度で溶けてきてしまうので、スピードと技術が必要な作業だ。そうだそうだ。店で誰が一番速くて綺麗かを店長も含めて仲間で競った事が何度もあったと、笑みが漏れる。
 また一滴が落下して、彼の記憶が開かれていく。
 当時の店の仲間。学生だった奴、脱サラした奴、司法試験のために勉強してた奴、大学受験に失敗して浪人してた奴色々いた。職業柄男が多い。だが、1人だけー
 最後の一滴が作った波紋が、瑪瑙のような白緑色をした怪しく美しい液体に広がっていく。
『僕は運がよかった。君は運が悪かった。ただ、それだけのことだ』
 彼がグラスに口をつけた瞬間、再び若い男の声が聞こえた。それが、若かりし頃の自分の声だと気付く。けれど、いつ誰に向けて放った台詞なのか肝心なところがハッキリしない。
・・・薄情な人ね
 口に含んだ酒を香りを転がすようにして喉を通過させた時、突如、小鳥が囁くような声に耳元をくすぐられた。驚いた彼が慌てて男に視線を移すと、緑色の女と目が合う。男はと見回せば、離れた木の下で煙草を燻らせている退屈そうな背中が見えた。
 彼の目の前で体育座りをしているその女には見覚えがあった。
 忘れるはずがない。女がにっこりと太陽のように笑む。間違いない。幸子だった。
・・・薄情な人
 満面の笑みをたたえた緑色の幸子が繰り返す。
 誰にでも分け隔てなく降り注ぐ笑顔。新緑の草原のように明るく優しい性格。本当に好きだった。彼は我を忘れて久しぶりに再会した彼女を見つめる。
 あの頃、仲間は残らず紅一点の幸子が好きで、告白をするタイミングを常に狙っていた。