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人生×リキュール アブサン

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深まる秋の夕暮れ。
 吹き絵で描いたような墨色の枝に包まれた薄緑色のグラデーションの空は、まるで罅割れた研磨前の橄欖石の中にいるようだ。見たことがない珍しい空の色だと彼は思った。不吉の前兆にも捉えられ、帰路を辿る革靴がどんより重くなる。
 どこにも寄れずに真っ直ぐに帰宅するしかない己が呪わしかった。
 かと言って、職場の連中と飲みに行く気にはならないし、誘ったところで、のらくらとかわされるのがオチだ。
 定年過ぎてもグズグズと居座るとはそういうこと。だが、再雇用してもらえなければ食いぶちすらも危うい我が身。家のローンが完済しているのだけが唯一の救いだった。職場ぐるみで煙たがられているのだ。今更、交流や機嫌伺いもないだろう。
 彼は、溜め息をついて再び夜空を仰いだ。
 今夜も妻は、スーパーの総菜を、プラスチックパックのまま一個、多くて二個並べただけの夕飯を用意しているのだろう。
 自分は先に食べているらしく、台所は料理をした形跡があるのにも関わらず、食卓に乗っているのはいつも、値引きシールがベタベタ貼られたでき合いのおかずと、インスタントのカップみそ汁だ。
 それでもまだ用意されているだけマシだと思い黙っているが、カップラーメンがぽつんと置かれていた時にはさすがの彼もムッとした。
 若くして産んだ娘達はとっくに成人して、何年も音沙汰がない。
 夫婦二人だけの生活になってからはずっとこの調子だ。怒る気も失せてしまった。
 エステ通いを常とし、七十目前だという事実を全く感じさせないほど若々しく派手好きな妻は、旦那をATMくらいにしか思っていないのだろう。ATMにしては残高が少ないが、ないよりマシなのであろう。
 どうやら、外に若い恋人がいるらしく、その男を呼んでは毎日我が家で夕食を共にしているのだと、先日近所の噂好きの主婦が話しているのを偶然聞いてしまった。そんな事を聞いたからだろうか、仕事が終わると嫌な気持ちを抱えながらも直帰するようになった自分は、どうかしていると思う。
 妻の浮気現場を抑えたいのか、惨めな自分を突きつけられたいのか、それとも今まで積み重ねた幸せと思っていた過去を諦めるためか。
 いずれにせよ、日々0.01ミリ単位で、妻に薄く薄く削られていった自分の変わり果ててしまった心が元の形に戻ることは、これから先、きっとないだろう。
「こんな歳で、そんなもん気付いたところでどうしようもないさ、見て見ぬ振りをすりゃあいい。それしかないだろ?」
 飲み相手だった旧友の言葉が何度も蘇ってくる。
 大学時代からの付き合いだった彼は、肝臓をやってしまい、去年、呆気無く逝ってしまった。
 浮腫んで黄色くなった別人のような死顔を見た時、旧友が言っていたこんな歳ということがどういうことなのかを実感したのだ。
 確かに、今までがむしゃらに働いて築いてきた地位と家庭を、こんな人生の後半になって断捨離する勇気ある選択はできそうにない。けれど、自分より年若い男と浮気する妻と、再びやり直す気力も残ってはいなかった。
 従順な犬のように真っ直ぐに家に帰ってくる頭皮が透けて見える夫を、さぞかし疎ましがって、その男と一緒になってバカにして笑っているのだろうと思うと、年甲斐もなく腸が煮えくり返る思いがする。
 熟年離婚という言葉が浮かんでは消えていく。
 一体どこの時点で、こんなにズレてしまったのか。
 足取りと同じくらい重たい溜め息をついて、掌で乱暴に顔を擦った。
 右手に提げた愛用の鞄が上下する。新婚ほやほやの時、誕生日に妻からプレゼントされた鞄はすっかり擦り切れ、薄暗闇でもわかる程に色褪せ、あちこちに綻びができていた。こまめにメンテナンスをしていたつもりなのに、いつの間にかすっかり古ぼけてしまっていた。
 今の自分達もこの鞄と同じだな。そう思うとやり切れなかった。どうしてなのかとお馴染みの疑問が浮かんでこないくらい、あまりに怠慢に時を重ね過ぎてしまったのかもしれない。
 また1つ溜め息が出た。緑の空はすっかり夜の帳に覆われている。今夜は月もない。
 ・・・疲れたな
 少し先にある街路灯のぼんやりした光を見つめながら、この時間には、人気のない暗い生活道路の真ん中で棒のように立ち止まった。足が一歩も前に出ていかない。
 食欲をくすぐるような匂いと共に、テレビの音に混じった笑い声がどこからか聞こえてきた。かつての我が家が重なり合い、懐かしさが込み上がると同時に虚しくなった。
 ・・・おれは今まで、何のために一生懸命やってきたんだろう?
 彼の問いに答えるかのように、唐突に不思議な爽やかさのする濃厚な香りが鼻腔に潜り込んできた。
 エキゾチックな吐息を吹きかけながら手招きする怪し気な美女のようなその香りは、彼の嗅覚から全神経を一瞬で支配してしまった。彼は香りに蠱惑されるままに街路灯を通り越し、その先の闇の中に取り残されたようにぽつんと灯る光に向かって夢遊病者のようにふらふらと歩いていった。
 光は、影絵の木々に包まれるようにして佇む細長い街灯。公園の入り口を暗示するU字型の車止めバーの輪郭をなぞる。
 彼は、香りに誘われるままに公園へと足を踏み入れた。
 この公園には浮浪者が屯す物騒な一角がある。香りはそちらから流れてくるようだった。
 彼は一瞬躊躇したが、気を取り直して進んだ。水飲み場を中心に段ボールで作成された住宅が立ち並ぶ中、香りを頼りに奥へと分け入る。少し行くと奥まった茂みの近くに一際貧相な段ボールハウスが風に揺れているのを見つけた。
 出入り口と思しき所には着膨れた猫背の男が座っており、逆さに伏せた段ボール箱の上にはプラスチックのコップが置かれている。香りの発生源はここらしい。
 彼は立ち止まって、男の様子を眺めた。
 目深に被ったキャップの橋から食み出す白髪混じりの頭髪と無精髭。マスクを片耳に引っかけて、乾燥した口許にぼんやりした速度でコップをあてがっている。
「一杯、千円」マスクをした男が不意に顔を上げた。
 影に覆われて顔や表情はわからないが、嗄れていない低い声の感じから中年くらいだとわかる。男は、座りなよと続けた。
「見下ろされるのは好きじゃない」キャップの奥から射るような視線を向けられた彼は、ぶるっと身震いすると、思わず「すみません」と口にした。なにかあると、すぐ謝ってしまうのは彼の悪い癖だ。
 男は「そこに」と、段ボールテーブルの向かい側を指した。
「いえ。なんの匂いだろうと思っただけでして」彼は必死に辞退しようとしたが、男が憮然と指差し続けるので屈まざる負えない。
 膝を擦りながら片膝立ちになった彼に、男は掌を突き出してきた。
「千円。この匂いに誘われてきたんだろ?」男は段ボールの下から、古びた瓶を大切そうに取り出した。
「とっときだ」
 男が誇らしげに掲げたガラス瓶の中で、エメラルド色の液体が街灯の光にギラッと煌めいて彼の目に刺さった。目を細めた彼に、男は再度どうするのかと聞いてくる。
 彼はフラフラと財布を取り出した。