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人生×リキュール アブサン

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 彼は、そういう類いが苦手で、いつも関心のない振りをしていたが内心では一喜一憂の波に振り回されていたのだ。仲間に負けないくらい彼女が好きなくせに、話しかけられたらぶっきらぼうな返事しかできなかった歯痒い自分を思い出す。それなのに・・・
 彼は、溶け残った砂糖が乗ったスプーンで酒を乱暴に掻き回す。強く香りが立つ。幸子の目が光る。
・・・バレンタインには、お手製のチョコをあげたよね
 そうだ。でも、おれは義理チョコをわざわざ手作りするなんて律儀なんだなと捻くれたことを考えてしまい、今忙しいからロッカーにでも入れといてよ、と彼女を遠ざけた。
・・・クリスマスには手編みのマフラーだったね
 そう。手編みに見えないくらい、よくできた焦げ茶色のマフラーだった。そんな凝ったものをプレゼントされるくらいなのだから、彼女の気持ちだってわかりそうなものだ。それなのに、どうしてだか、当時の自分は鈍感で変に湾曲した考えをしていた。あのマフラーも手編みなのが重くて、滅多に巻かなかったんだ。一回だけ、店の買い出しでたまたま巻いた時に、彼女はよく似合ってると何度も褒めて喜んでくれていたのに。
 きっと、両思いだった。それなのに・・・
 彼は一気にグラスを煽った。
・・・私は本気だったのに
 幸子が顔を歪めて思い詰めたように氷を割る彼の背中に話しかけている。背を向けている自分の表情は窺い知れないが、作業に集中していたとしたら無関心な返事をしていたのだろう。いつもそうだ。幸子が何かを言ってくる時は、仕事の事で頭が一杯になっている時が多かった。
 営業に関わることだけではなく、季節のカクテルレシピ考案や、コンペティションに向けてのアイデア。それまでの実績が認められ、店長にも頼られ、バーテンダーとして一番脂がのっていた時期だ。無理もない。
 先輩が、本気で幸子を口説きにかかっているのだと聞いても関係ない顔をして放置していた。曖昧な態度の自分と、ストレートな愛情を打つけてくる先輩との間で幸子が触れ動いていた気持ちが今ならわかる。
 覚えているのは、仕事の多忙さと比例するようにして幸子との関係が上手くいかなくなっていった記憶だけ。けれど、直接的な原因はなんだったのか、決定打はいつだったのかは思い出せない。気付いた時には、彼女との距離は離れ、他人行儀の間柄になってしまっていた。
 彼が顔を上げると、幸子の代わりにいつの間にか男が座っている。彼はゆるゆると財布を取り出した。
 三杯目が準備される。男が幸子に見えてきていた。
『僕は運がよかった。君は運が悪かった。ただ、それだけのことだ』
 言い逃れはできない。この台詞は、自分が彼女に向かって言った。
 僕は『君と過ごせて』運がよかった。『だけど、』君は『僕で』運が悪かった。ただ、それだけのことだ『から、気にしなくてもいいのだ』と。きっとこれを言われた時に、彼女の心に変化があったのだろう。突き放されるような言葉を受けて、彼女はどれほど傷ついたのだろう。幸子の思いを受け止めようとせず逃げていたのは、他でもないおれだ。
「ストレートは外せねぇ」
 スプーンが乗った空のグラスが彼の前に置かれたかと思うと、森の奥にひっそりと湛えられた湖を思わせるエメラルドグリーンの酒が角砂糖めがけて注がれた。たちまち春の木洩れ陽のような甘美な液体がグラスに満たされる。今までのものとは違った荒々しさが香り立つ。
 幸子への愛情を容易く思い出せる程、彼女のことが大好きだったのに、最後まで思いを告げることをしなかった自分。
 いや、しようとしなかった。怖かったんだ。
 自分が思いを告白することで、彼女と過ごす幸せな時間が壊れてしまうかもしれないと思うと怖くてできなかった。いや、今更そんなこと、言い訳に過ぎない。彼女が自分に構うのはなぜかなんて考えようともせず、ただ、楽しく幸せな時間が永遠に続いて欲しいと勝手な願いを抱いていた愚かさ。彼女を好き過ぎて大切過ぎて壊したくなくて、けれどあの頃の自分には自信がなかった。彼女を幸せにできる自信は疎か、彼女の要望に答えられる自信すらなかった。幸子には誰よりも幸せになって欲しかったし、彼女が幸せになるのなら、相手は自分でなくてもいい。あんな台詞を吐いて逃げに徹するほど情けない男だったんだ。
 今ならどうか? いや、自分は今も昔も対して変わっていない。どのみちうだつが上がらない体たらくだ。ゆえのこの様。
 結局、幸子は先輩と付き合い、ほどなくして二人は揃って店を辞める。
 それから何年後かに風の噂で、二人が結婚したらしいことを知った。
 彼は翡翠のような色に変わった角砂糖を口に含んだ。記憶が加速していく。
 彼女の喪失と激しく痛む胸に苦しみ、結婚したという噂を聞けば、安堵すると同時に落ち込んだ。自分はひたすら矛盾していると思う。
 幸子が店を去ってから数年後に、一般企業に就職した。親の手前、いつまでもアルバイトでいるわけにはいかなくなったのだ。
 店の店長から引き止められ、社員にならないかと誘われたが、無下に断ってしまった自分。あんなに燃え盛っていたバーテンダーとしての情熱がすっかり消沈しているのがわかった。こんなものだったっけ? 我ながら呆れた。この程度のもののために幸子の気持ちを踏み躙ってしまったのかと。彼女とは関係なく、仕事は仕事でやり甲斐があって面白かったはずなのに。
 何処かで彼女の存在を引きずっているのか、それとも後悔しているのか。どちらにせよ、当時の自分は考えなかったので、わからず終いだ。
 就職後は、営業の平社員で散々扱き使われ、面白味を感じられない仕事の成績を伸ばす事にだけ集中して、楽しくもない接待に付き合って、思ってもないお世辞を並べて取引先の機嫌を取ることだけに心血を注いだ。
 妻は取引先の会社の受付嬢だった。
 派手な顔つきをした女性は苦手だったが、上司の強引な仲介があり、やむなく夫婦にならざる負えなかったのだ。愛しているかと聞かれれば、首を傾げる相手。それでも、一男一女の子どもを授かり、立派に育て上げたと自負している。けれど・・・
 常に虚無感が纏わり付いてくる。
 仕事をして、家に帰れば肩身を狭くして飯を食い、風呂に入って寝るの繰り返しの毎日。生きる為に働く日々に、答えのない疑問を感じることがよくある。例えば朝の満員電車の中で。例えば残業で遅くなり誰もいなくなったオフィスで。上手く商談がまとまった帰り道に、ふと浮かんでくる虚しさを気付かぬ振りをして生きてきた。
 今ならわかる。
 もし、あの時、幸子に自分の思いを伝えていたのなら、何かが変わったのかもしれないこと。この人生が全く違うものになっていたのかもしれないこと。
 叶わなかった、いや叶える気のなかったもう一つの未来の可能性を未練足らしく考える。
 人生にはターニングポイントがあるというけれど、もしかしたら、あの時がそれだったのかもしれない。幸子と一緒にいたら、もしかしたら、おれは今もバーテンダーだったかもしれない。自分の店を持って、もっと自由に、もっと大胆に、誰に気兼ねなく生きられたかもしれない。あの時に、きちんと彼女と向き合っていたのなら。
・・・あなたの人生を私のせいにしないで