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第七章 星影の境界線で

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5.紡ぎあげられた邂逅ー4



「……! 大丈夫か!」
 ルイフォンが駆け寄り、抱き起こそうとホンシュアの肩に触れた。その瞬間、彼は「熱(あつ)っ」と思わず手を引っ込めた。
 凄い熱だった。
 先ほどの比ではない。
 羽は元の長さにまで戻り、光は淡く揺らめく程度にまで光量を落としている。だが、その熱量は収まることなく、まるで炎のそばにいるかのように、ちりちりと肌を灼(や)く。
「ホンシュアァ!」
 調理台の影から、ファンルゥが飛び出してきた。〈蝿(ムスカ)〉がいる間、怯えて隠れていたのだ。
「ホンシュア、熱いの? 痛いの!? ホンシュア、ホンシュアァ!」
 泣きながらホンシュアにすがりつこうとするファンルゥを、ルイフォンは抱き止めた。触ったら火傷してしまう気がしたのだ。
「ファン、ルゥ……。平気、よ……」
 辛うじて顔だけを上げ、ホンシュアはファンルゥに笑いかける。しかし、その顔はすぐに苦痛に歪み、床に伏してしまった。
「ルイ、フォン……。その、瓶を……」
 ホンシュアの指先が何かを求めるように、空(くう)をさまよう。
「あ、お薬!」
 ファンルゥが大声を出して、調理台の上を指差した。
 その小さな指を追いかけるように、ルイフォンは冷たく光を反射している小瓶に目をやる。〈蝿(ムスカ)〉は、それを冷却剤と言っていた。
 あの男を信用してよいのだろうか。
 ためらうルイフォンに、リュイセンが「毒かもしれないぞ」と追い打ちを掛ける。
「大丈、夫。……あの男、……私の、力……必要……から」
「分かった」
 ルイフォンは小瓶を取り、ホンシュアの前で膝を折る。彼女は、ありがとう、という顔で受け取った。
 横になったまま中身を飲み干そうとするホンシュアを、ルイフォンはそっと抱え起こした。羽は触れるのに危険を感じるような熱さだが、体そのものは熱いと承知して構えていれば我慢できないほどではない。
 ホンシュアは目元で感謝を告げると、小瓶に口をつけた。こくりと喉が動き、液体を飲み込む。
「ホンシュア、お薬、苦くない?」
 タオロン譲りの太い眉を寄せ、ファンルゥの瞳がホンシュアを覗き込んだ。あどけない顔で真剣に心配している。
 ふうぅっと、ホンシュアがゆっくりと息を吐いた。まるで呼気と共に、熱を放出しているよう――。事実、彼女の体を支えているルイフォンには、熱がさあっと引いていったのが感じられた。熱気を振りまいていた羽も、人の体温程度にまで熱が下がり、淡い光を放ちながら優雅に波打っている。
 ホンシュアの顔が穏やかになり、白い手がファンルゥの頭に伸びた。
「ちょっと苦かったけど、大丈夫!」
 くしゃり、とファンルゥの髪が撫でられ、ホンシュアがにっこり笑った。
「ホンシュアァ……!」
 笑顔が伝染したかのように、ファンルゥが満面の笑顔になる。大きく開けた口に、跳ねた癖毛が入っても気にしない。
「心配かけてごめんね。もう、元気になったわ」
「ホンシュアァ……。よかった、よかったぁ……」
 まるで母親に甘えるように、ファンルゥがホンシュアに抱きついた。
「ファンルゥは優しい子ね……」
 ホンシュアは無邪気なファンルゥに、目を細める。その眼差しは限りなく穏やかで、優しかった。
「やっぱり、ホンシュア、綺麗だなぁ……」
 そんなことを言いながら、ファンルゥはホンシュアの羽を興味深げに、じっと見る。だが、魅入られたようにきらきらしていた瞳が、だんだん、とろんとしてきた。
「ファンルゥ、眠くなっちゃった」
 大きなあくびをしながらファンルゥは目をこすり、その場に座り込む。
 子供はとっくに寝ている時間だった。チョコ探しと、素敵な天使のホンシュアのお手伝いで、頑張って起きていた彼女も限界だった。
 ホンシュアは、ファンルゥの頭を再び優しく撫でると、不意に立ち上がった。横たえられたコウレンのもとへ行き、ひざまずく。
「この貴族(シャトーア)、あの子のお父さんなのね」
「あ? ああ……?」
 急にどうしたのだろうと、ルイフォンが疑問に思う視線の先で、彼女はそっとコウレンの手を取り、頭を下げた。
「巻き込んでしまって……。ごめんなさい」
 ホンシュアの背で光の羽が輝き、コウレンを包み込むように、ふわりと広がった。
 それはまるで、天使の祈り。天使の懺悔――。
「なっ……?」
 ホンシュアとコウレンは、光の糸で作られた、輝く繭に包まれた。
「お、おい? いったい、何を!?」
 光の糸は、一本一本が独立した意思を持つかのように、それぞれに明暗を変えていく。そのさまは、まるで激しく脈打つ、ひとつの生命のよう……。
 ――やがて光が静まると、先ほどと変わらぬ姿で、ホンシュアがコウレンの手を握っていた。
 憂いの天使は顔を上げる。
 光の糸は、するすると彼女の背中に吸い込まれていき、光の羽は消えた。
 そして厨房は、元の薄暗い闇に落ちる。
「行きなさい」
 唐突に、優しくも鋭い、ホンシュアの声が響いた。
「誰かに見つかる前に、早く脱出して」
「お、おい!?」
 ルイフォンは戸惑う。結局のところ、ホンシュアの意図と、自分の身に起きた激痛の理由は謎のままだ。
 ためらうルイフォンの肩を、リュイセンが叩いた。
「行くぞ」
 そのままリュイセンは踵(きびす)を返す。背中が、今やるべきことを考えろ、と言っていた。
 ホンシュアが手を振る。
「あの子を大切にしてあげてね……」
 そう言って、微笑んだ。


 ルイフォンとリュイセンを送り出すと、厨房は静寂に包まれた。
 窓からの欠けた月が、物悲しげに調理台を照らしている。綺麗に並べられた調味料の瓶が、少しずつ違う色の光を作り、幻想的な模様を描き出していた。
 ファンルゥは壁に背を預けて眠ってしまった。すうすうと気持ちよさそうな寝息に併せ、胸が上下し、癖毛が揺れる。
 こんなところで寝かせてしまったら、風邪を引いてしまうだろう。
 抱き上げようと屈んだとき、くらりと目眩がしてホンシュアはよろけた。また熱が上がってきたようだった。
 いくら子供とはいえ、抱えて部屋まで連れて行くのは厳しそうだ。ルイフォンたちが完全に遠くまで行ったころを見計らって、人を呼ぶしかないだろう。
 ホンシュアは座り込み、ファンルゥの頭をそっと膝に載せた。

 ――ごめんね、ファンルゥ。眠いのにありがとう。
 私は、あなたを利用したの。小さな記憶をひとつだけ書き加えた。
『お野菜を全部食べたらチョコをくれるって、パパが約束してくれた』
 小さなあなたが、夜中に厨房に行く理由。これが一番、あなたの他の記憶に影響が出ないと考えたの。
 あとは、あなたの好奇心と優しさで補えると計算した。
 ごめんね、利用して。
 あなたは立派に役目を果たしてくれた。ありがとう。ゆっくり休んでね。
 感謝するわ。
 私をライシェンに逢わせてくれて――。


 夜風が桜の大樹を吹き抜け、弾かれた薄紅の花びらが、ちらちらと白く闇を照らす。それは、あたかも天から星々が舞い降りてきたかのよう。
 頭上を覆うは、紺碧の空。欠けた月が天頂を登りきり、そろそろ落ち始めようとしていた。
 ルイフォンからの救出成功の報を聞き、メイシアは真っ先に外に飛び出した。
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN