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第七章 星影の境界線で

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5.紡ぎあげられた邂逅ー3



 憤りを含んだ声と共に、乱暴に開かれた厨房の扉。その向こう側で、すらりと背の高い男が肩を怒らせていた。
「〈蝿(ムスカ)〉……」
 まだ、ぼうっとする頭で、ルイフォンは呟いた。夜であるにも関わらずサングラスを掛けているのは、顔を隠すためだろう。
 敵を前にして平衡感覚が戻らぬ体に、ルイフォンは焦燥を覚えた。
 突然、頭に激痛が走ったかと思ったら、ホンシュアの背から光の羽が現れた。朧(おぼろ)げな意識の中で光に抱(いだ)かれ……何が起きているのか分からないうちに、急に楽になった。
 その直後の、〈蝿(ムスカ)〉の登場である。
 ルイフォンのそばに駆け寄ってきていたリュイセンは、くっ、と息を吐いた。打ち合わせでは〈蝿(ムスカ)〉と遭遇した際には、リュイセンが牽制している間に、ルイフォンとコウレンが先に脱出する手はずになっていた。しかし今のルイフォンには、それを期待できそうにない。
 リュイセンは、抱えていたコウレンをそっと床に横たえた。自力で動けない者がふたりもいては、担いで帰ることはできない。コウレンを薬で眠らせてしまったことに、今更ながら彼は後悔していた。
 双刀の柄に手をかけ、リュイセンは前に踏み出す。
 ――突如、ホンシュアの背から白金の光が伸び、彼の行く手を阻んだ。
 脈打つように太さと明るさを変える光の糸は、かなりの熱量を持っているらしい。触れずとも温度が伝わってくる。
「……なんのつもりだ?」
 邪魔をするような光の羽に、リュイセンはホンシュアの意図を測りかね、眉を寄せた。
 彼女は〈蝿(ムスカ)〉と同じ、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉。だが、リュイセンが肌で感じた見解では、彼女は敵ではない。おそらくは、ルイフォンの母親の関係者というところだろう。
 ホンシュアはリュイセンには答えず、座った姿勢のまま、ゆっくりと〈蝿(ムスカ)〉を振り返った。白金の光に照らされ、神性すら感じられる顔は明らかな嫌悪をはらんでいる。
 そんな彼女に〈蝿(ムスカ)〉が低い声を掛けた。
「姿が見えないと思っていたら、こんなところで何をしていたんですか?」
 侵入者たるルイフォンとリュイセンを無視して、〈蝿(ムスカ)〉の顔は、まっすぐにホンシュアに向けられていた。
「……頼まれたこと以外……私の……自由で……いいでしょう……?」
 ホンシュアの肩が荒い呼吸と共に上下し、それに併せるように背中の羽がざわざわと波打つ。羽から発せられる熱気が熱い風を生み出し、厨房の室温を上昇させた。
「鷹刀の子猫と、エルファンの小倅、それとイノシシ坊やの娘ですか。子供たちを集めて、お遊戯会でもするつもりですか?」
「……あなた、には……関係ない、でしょ……う……!」
 苦しそうに言い返すホンシュアを〈蝿(ムスカ)〉は鼻で嗤う。
「熱暴走とは相当に辛いもののようですね。つまり――そこまでするだけの理由が、あなたにはあるわけですね? 気になりますね。あなたがここで何をしようとしていたのか。――あなたが『誰』なのか」
「……答え、る……義理、は……ない、わ」
 ホンシュアは両手を床につけ、倒れそうになる上体を懸命に支えながら、〈蝿(ムスカ)〉を睨みつけた。拭うことのできない脂汗が、額からつぅっと滴る。
「あなたは私に与えられた道具ですよ。言うことを聞いてもらわなくては困ります」
 わざとらしい溜め息をつき、〈蝿(ムスカ)〉は肩をすくめた。そして軽く顎を上げ、ホンシュアを見下しながら言った。
「――それとも『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』とやらが頓挫しても構わないのですか? 私の技術が必要なのでしょう?」
 勝ち誇ったような〈蝿(ムスカ)〉に、しかしホンシュアは薄く嗤う。
「……あなたは、……自分のほうが、偉い、とでも……思っているの?」
 ホンシュアの羽がひときわ輝き、人間の背丈ほどの長さだった網目状の糸の絡まりがほどけ、〈蝿(ムスカ)〉を目指して伸びた。
「本気ですか? そんなことをすれば、熱暴走が止まらなくなりますよ?」
〈蝿(ムスカ)〉は口元に薄ら笑いを浮かべる。だが、光の糸が足元に近づいてくると、避けるように一歩下がった。サングラスの目線が、糸の動きを警戒していた。――動揺を隠しきれていなかった。
「あなただって……記憶……書き……られるのが……怖いのね。……あなた、は……『呪い』と……呼んでいた……かしら……?」
「……こいつ!」
 ホンシュアは嗤う。
 長い髪を、顔貌を、むき出しの肩を……全身を白金の光で染め上げ、無慈悲な天使の微笑みを落とす。
「斑目には……あたかも、あなた自身が、……脳内介入できる、かのように……振る舞って……、あつかまし……。……所詮、あなた、も……『私』、の駒……なのに……!」
「……!」
〈蝿(ムスカ)〉の怒気が膨れ上がった。だが、ホンシュアの放つ光が、それを押さえ込むかのように輝きを増す。
 くっ、と〈蝿(ムスカ)〉から小さな声が漏れ、不快げに鼻を鳴らした。しかし、それは一瞬のことで、彼はすぐに両手を上げる――小馬鹿にしたような態度で。
「ここは引きましょう。私のほうが分が悪い。あなたに呪われることだけは避けたいですからね」
 彼は懐から小瓶を出し、近くの調理台に載せた。ことり、と置かれたそれには、透明な液体が入っており、透けた影を台の上に伸ばしていた。
「冷却剤です。今のあなたには必要なものでしょう?」
 そう言いながら、〈蝿(ムスカ)〉は音もなく、すっと扉を出ていこうとした。
「ま、待て!」
 熱気で温められた空間を、鋭いテノールが切り裂いた。
 床に座り込んだままのルイフォンが腕を伸ばし、去ろうとする〈蝿(ムスカ)〉を捕まえようとするかのように指先が空(くう)を掴む。そばにいたリュイセンが「ルイフォン!?」と困惑の叫びを上げるが、ルイフォンはそれを聞き流した。
「〈蝿(ムスカ)〉! 何故、俺たちを無視する?」
 横たえられたコウレンの姿は〈蝿(ムスカ)〉にも見えている。ルイフォンたちが何をしに来たか、一目瞭然だ。それを見逃すような真似をするのは腑に落ちなかった。
〈蝿(ムスカ)〉は口の端を上げた。
「あなたたちは、その貴族(シャトーア)に用があってきたのでしょう? そして、私は貴族(シャトーア)には興味がない。私にとって意味があるのは鷹刀イーレオだけです。それだけのことです」
 貴族(シャトーア)など眼中にない。むしろ疑問に思われるとは心外だと言わんばかりの〈蝿(ムスカ)〉である。
 信用してよいのか否か微妙なところだが、確かに理にかなっている。
 戸惑うルイフォンに、〈蝿(ムスカ)〉は顔を向けた。サングラスの下の目は何を思っているのか分からないが、それでも嘲りの表情は見て取れた。
「あなたこそ、危険を顧みず、よくここまで来たものですね。あの小娘の色香に堕ちましたか?」
 ルイフォンは反射的に、むっと鼻に皺を寄せた。
 だが、くだらない挑発に乗っても平常心を失うだけだと、すぐに気づいた。――先ほど激痛に倒れたのが嘘であるかのように、思考がはっきりとしている。
 彼は目を細め、にやりと不敵に嗤った。
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN