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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 五、生命の章

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 死を恐れ、生を尊ぶ、そうした当然ともいえる価値観を共有できないとは――。
 景色が変わる。懐かしく美しい、青の風景が、そのうちにある敵の存在を警戒するように、ざわざわと色を変えてゆく。
 ホルアクティが一度目を閉じると、額の赤い宝玉が、静かにその光を収めた。
 そうして再びその目が開かれたとき、
 漆黒の瞳の主、ラアが、そこに現れた。
 大きく開いた黒い目でハピを見上げ、それは小さな体で堂々とその場にある。
 穏やかな表情をして佇むラアは、しかしあふれんばかりの活力に髪をごうごうとなびかせ、それは日没の陽光を閉じ込めたかのように琥珀色に輝く。
 ラアはそうして、にっと笑みを浮かべる。漆黒の奥に、金の星が煌めいた。


      *


 待っていた――その言葉を何度聞いたろう。
 うんざりした調子で、キレスは思った。それが利になったためしなどない。いつも同じ、この力を欲し利用しようとするばかりだ。
 北の水神デヌタはまるで戦意を示さず、静かにそこにたたずんでいた。その存在が地下のこの場に霧を生み、互いの姿がぼんやりと白く霞んでいる。後ろはただ闇。幼子たちはデヌタの指示だろう、とうにこの場を離れていた。
「お前と話がしたい。同じ場に立つものとして」
 デヌタが言う。キレスは眉をひそめる。
「滑稽に思うかもしれんな」と、デヌタは弱々しく笑った。「しかし事実同じであるのだ。大切なものを失った――その死を悼むものとして」
 するとキレスは、なにも言葉にしない代わりに、心底軽蔑するというようにぎゅと目を窄めた。
 デヌタはしばらく、キレスのそうした眼差しを無言で受け止めていた。当然向けられるべき復讐の誓いが、そこにはあるのだろう。同じものが、かつてデヌタのうちにもあった。しかし激しい憤怒はいつの間にか溶け去り、今はただ重い哀惜の念ばかりが胸を満たしている。それは自身の性質が、積憤の火よりも悲泣の涙と親しいためであろうと、デヌタは思った。
 キレスの内に燃え盛るそれが広げられることのないように、デヌタは注意深く間を探る。霧はいっそう深くあたりを覆っていた。
「……『月』とは、失った過去を知る力だというが、本当なのだろうか……?」
 デヌタは、まるで独り言をするように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「この瞼の裏に、今でも確かに刻まれている。――私の、ちいさな妹の姿だ。
 妹はどこへ行くのでもよくついてきた。ひどく寂しがりだったように思う。ひとりではなかったはずだが、なぜだろうな……他の誰でも、納得できなかったのだろう。そうしてまっすぐに慕ってくるようすが、愛しくてたまらなかった。応えてやりたいと思わせる、そうしたものだった」
 声に乗る懐旧の情はしっとりと霧に溶け、そこはまるで夢の中だった。キレスはいつのまにか、聞くともなしにその言葉を聞いていた。
「声を聞けば、何を置いても駆けつけたいと思わせた。聞き逃すことなど、ありえないことだった。しかし妹はまた、声することなく姿を探そうとすることもあった。できるだけ視界に入れていたいというようだった。その不安げな表情は、しかし会えばパッと花が開いたように輝くのだ。その瞬間を、どれだけ尊んだかしれない……。ほっとしたような、嬉しそうなその笑顔は、本当に――思い起こすだけで胸が温まるようだ……」
 キレスは思う。デヌタの語る妹の様子は、まるで幼いころの自分だ。南で兄弟と知らずケオルと会ったその頃の――記憶がなく、何のよりどころもない自分は、同じ姿をしているという理由で彼をごく身近に感じていたのだった。無意識に、その姿を探していたことを覚えている。ひとりでいる事が、ひどく怖かった。ひとりという事実が、死にも近い感覚で圧し掛かってくるように感じていた。それを取り払うことができるのが、彼だったのだ。
 そうしてキレスは、幼い頃の自身をその身に宿らせ、霧の中に幻を見ていた。デヌタの語る様子はケオルに投影され、同様に心を傾けられ望まれることを幻想した。事実と幻の境は、常にあいまいなものだった。
「妹だけではない」デヌタはなお続ける。「つい先日までそこにあったものを、思い起こさずにいられるだろうか。日常の中で自然に、あるべきものを求めてしまう。ふとした瞬間に、そこに居ることを思ってしまう。どんな表情をしてなんと応えるか、その言葉も、声さえも……。
 ――だが」
 と、うっとりと閉じられていた淡青色の眼が、静かに開かれた。
「それらが、日ごと薄らいでいくように感じられる」
 悲嘆を眉間を刻み、デヌタは何度も首を振る。
「恐ろしい、ことだ……。何一つ失いたくないと思っていた。しかし望みに反して、それは時と共に失われようとしている。このまますべて消え去ってしまうなど考えられない、だが、――どれだけ保たれるよう望み、繰り返し思おうとも、完全に抗うことは難しい……」
 そのこぶしを強く握りしめ、デヌタは言った。
「留めるすべはないものだろうか……?」
 そうして、もう一度キレスを映す。
「過去のようすを知らせ、再現する力――『月』であるお前は、そうしたものを失わずにいられるのか? 失ったその声を、もう一度聞くことができるというのか……?」
 キレスは思わず目を逸らした。得体のしれない感情、そのごく静かな揺れが、波紋となって胸に広がってゆく。
「私は取り戻したいのだ。私を私と認識し私として乞うもの、それに知る憩いを、同じように――」
 デヌタの声は次第に熱を帯び、ふるえ、悲痛に響く。
「もう一度、……いや、何度でも。私を呼ぶその声を聴きたい。私を見てするあの表情をとり戻したい。ちょっとしたしぐさを、戯れ預けたその体の重みを。伸ばして触れる、その指先の温みを……」
 ――声が、聞こえた。
 キレスは驚き目をしばたく。……いい加減起きたら。寝台の横で読み物をしていたケオルが、顔だけこちらに向けてそう言った。
 それはほんの短いあいだに繰り返した日常だった。ケオルはそうして、寝すぎも体に悪いだとか、そろそろ冷えてくるからとか、こんな時間に寝て疲れが取れるのかと、お決まりの小言を並べる。キレスはまたぱちぱちと瞬いた。じゅ、と何かが胸を焼く。それに気づかないふりをして、いつも通りにそれらを受け流そうとした。……が、できなかった。わけも分からないまま、ただそこに縛られたように動けない。
 ケオルが心配そうに顔をのぞきこむ。熱でもあるんじゃないのか。言いながら額に触れた手のひらは、じんわりと、温かい……――。
 幻である。当然それと分かっていた。けれど額にはその熱が、確かに感じられるのだった。キレスはすうと目を閉じると、それを感じるままに任せた。わずかにも手放したくはないと、そう思った。
「……そうだ、何もかも。その意味もすべて以前のまま。そのまま戻すのでなければ、何の意味があろう?」
 デヌタは続ける。その腕が、目に見えぬなにかを掴み取ろうするように伸ばされる。
「――それには、形が戻されるだけでは、足りない」
 そうして虚をつかんだ掌を弱々しく開き見た。
「我が主は肉体をよみがえらせる業をもつ。まるで奇跡のような業だ。その目は再び開かれ、その腕が同じ形をして、再び確かなぬくもりをもつ。