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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏(番外編)9.紗弥の章 ハロー、ブルーバード

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 ジャズ喫茶のこの店で本格的なステーキ肉を調理するのは初めてのことらしく、結婚披露パーティの話が出た時から、試作を重ねてきた。紗弥はいつものメニューでいいと言ったが、料理だけは絶対にゆずれないと綿谷がはりきるので、何度も試食に付き合った。

 種類も厚さも様々なステーキ肉を、順にソースにつけて頬張る。ひとつは定番のハンバーグ用のデミグラスソースを改良したもの、それから、すりおろした玉ねぎをたっぷり入れたオニオンソース、最後まで苦労していたわさび風味の醤油ソースの三種類だ。

 どれもおいしいが、やはりいつものデミグラスソースの味に舌は素直に反応する。

「私はこれが一番好きだけど、三種類とも出しちゃえば?」
「肉の方はどうかな」
「これが一番やわらかくて肉の風味もしっかりあって、美味しいと思います」

 ナプキンで口を拭きながらそう言うと、綿谷は満足そうににっこり笑った。

「君は十分、役に立ってると思うよ。なんたってこの店の味は、君の舌次第なんだから」

 そう言われて、紗弥は目を丸くした。にこにこと笑いながら「うん、うまい」と試食をしている綿谷を見て、してやられた、と思った。なんだかんだと理屈をこねても、いつもこの調子でやりこめられてしまう。

「でも役に立ってほしいから結婚するんじゃないよ。僕はどうしても君が欲しいんだ」

 眼鏡の奥の瞳が優しく微笑んでいる。この顔をされると、紗弥は目を反らせなくなる。

「気まぐれでふっと姿を消されるのも困るけど、君が他の誰かのものになるのはもっと耐えられない。結婚すれば君は僕のものだ。ずっと手放さないつもりだから、その覚悟はしておいて」

 穏やかな笑顔とは裏腹に、綿谷の声は紗弥の身体をぎゅっと縛りつける。息苦しいけれど心地よくて、ずっと酔っていたくなる響きをしている。

 泣きそうになるのをこらえながら、紗弥はうつむいた。すると綿谷はカウンターから出てきて紗弥の隣に腰かけた。彼がカウンター席に座るところを見るのは初めてだった。
 綿谷は手を伸ばすと、紗弥の前髪をかき分けながら言った。

「……まだ何か、未練がある?」

 その言葉に、紗弥は身を固くする。この年上のずるい男は、何でもお見通しだという調子で紗弥の心の中に入ってくる。観念するときもあれば、とっさにシャッターを下ろしてしまうときもある。長年、紗弥の中に張り巡らされた自己防衛本能が綿谷にまで発動して、そのたび、たまらなく嫌になる。

「悪い。遅くなった」

 そこへ武が入店してきた。黒いブイネックTシャツにベージュのコットンパンツと相変わらず地味な格好だ。髪もいかにも社会人らしく短いのに、目だけは今も変わらずジャズトランぺッターの熱を秘めている。

「すっげえいい匂い。まだ試食やってんの?」

 そう言いながら、近づいてくる。無遠慮に紗弥の隣に腰かけると、紗弥が使っていたフォークにステーキを突き刺して頬張り始めた。

「明日のメニュー、だいたい決まりましたか?」
「うん、これで最後だね。食材の調達は明日の昼までに済ませるらしいし、十分間に合うよ」

 二人は紗弥をはさんで話し始める。武は「そりゃよかった」とつぶやきながら、紗弥の飲みかけの水まで口にした。幼い頃からの知り合いとはいえ、遠慮がなさすぎる。綿谷が気を害していないかとこっそり様子をうかがったが、いつもの微笑みからは何も読み取れなかった。

 同期生に呼ばれて武と紗弥が同時にふりかえると、その拍子に肩が当たった。彼は「悪い」とだけ言って立ち上がる。紗弥は何も返せなかった。ただ、触れた肩が熱い。

「……用が済んだなら帰ってもいいですか」

 紗弥がぼそりとつぶやくと、綿谷は目を丸くして言った。

「ああ、うん。明日は朝が早いしね。送って行こうか?」

 腰にかけたチェーンホルダーを探ったが、紗弥は首を横にふった。

「小雪と一緒に帰ります。明日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」

 紗弥の調子に合わせて、綿谷は丁寧に頭を下げる。付き合って一年も経つのに敬語が抜けないことを咎めもしない。そのことに甘えきっている自分にも気づいている。

 明日から共に暮らすこの人に、自分はどう寄り添えばいいのだろう――答えの出ない問いかけは、いつまでも頭の中で回り続けた。



 自室にかけられたコルクボードを見て、紗弥は息を吐く。

 写真には大学の一軍バンドに所属していたメンバーが満面の笑みで写っている。テナーサックスを抱えた紗弥が前列にしゃがみ、背の高い武と綿谷は最後列に立っている。

 この時のバンドマスターは綿谷、コンサートマスターは彼と同期生のピアニスト――髪の長い彼女は、このとき綿谷と付き合っていた。二人は結婚するものだと誰もが思っていた。

 ――君は、武と一緒になるものだと思っていたから。

 いつか言われた綿谷の言葉が頭の中で回る。それはこっちのセリフよ、と考えながら、写真に映る綿谷とピアニストの上級生を見つめる。

 綿谷と別れたあと、彼女がプロのピアニストになったことは風の噂で聞いた。四年以上付き合っていた二人が、その後どういう関係にあったかは知らない。今更、聞く勇気もない。

 クローゼットを開けて、最後にひとつ残された段ボール箱を空ける。中には文集やアルバム、学生時代に友人たちと交わした手紙や写真がおさめられている。

 養父が事故死し、再婚した母と共にこの荻野家へやってきて、もう二十年以上経つ。施設で育った紗弥は、母とも血のつながりがない。実父のことは全く知らないし、生みの母親のことも精神的な病を患って紗弥を施設に預けたとしか聞かされていない。

 紗弥の家族は今の両親であり、妹の小雪だ。そしてまた同じ施設出身の武にとっても、彼の家族は有川の両親であり、亡き弟であり、愛美であるはずだ。

 段ボール箱の底に収めていた箱を取りだす。中には緑色の小さな折り紙が入っている。
 すり切れたその紙を手に取って、そっと中を開く。

 ――さやちゃん だいすきだよ たけし

 武が施設を出るとき、ハンカチにしのばせてこっそり渡してくれた手紙――小学校に上がる前だった彼に書けた言葉は、この三つだけだった。「ち」と「よ」は鏡文字になっているし、内容を知らないものが見れば、「たけし」以外は何を書いているのかもわからないだろう。

 彼は手紙の存在を忘れているだろうし、見せようと思ったこともない。ただ、何度捨てようとしても決心がつかなくて、未練がましく箱の中に収めてしまう。

 大学で武と再会したとき、この世に奇跡は存在するのだと思った。金色の髪を獅子のように逆立てた武と目が合った瞬間、世界の流れが止まった。胸を射抜くような瞳が紗弥をくぎ付けにした。片時も忘れることのなかった武の存在が目の前にあるのに、一歩が踏み出せなかった。

「……もしかして、紗弥ちゃん?」

 すっかり声変わりした男らしい声で武は言った。途端に懐かしい憧憬が眼前に広がって、紗弥は歯をくいしばった。今まで抱えてきた孤独な思いが涙になってあふれ出しそうだった。