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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

INDEX|39ページ/53ページ|

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 幼いキレスは自分自身でないものに翻弄される。そしてそれを止められない。
(なんで……)
 そうしてふいに、遠くから、その目がこちらを映す。
 一瞬。そこに浮かぶ、冷ややかな色。
 呆れ。諦め。冷笑。無関心。遠ざけたいという思い。精神的な距離の開き。
 キレスのうちの闇が、じわりと濃さを増す。
 これと同じことが、まったく同じことがあった。自分は、これをよく知っている。
 千年前のアンプに向けられた、大勢の他人からの目に似た……けれどあれほど嘲る色のない、
 アンプの母が見せたような……けれどあれほど強い嫌悪の色でない、
 それはほんの一瞬、隠され抑えられていた表情の奥から覗く、本心。
(かあさん)
 その一瞬の変化を、幼いキレスは確かに捉えていた。
 普段はそれと気づかれないように必死で隠し、そのために瞳をみつめることをしない母。
 それが一瞬であるために、普段の、そうでないほとんどの時間で、キレスはそれが間違いであると、自身の勘違いであると確認しようとし、そのたびにまた繰り返される。
 繰り返し、そして、刻み付けられる。
 たった一瞬の真実のために、その他すべての色が塗り替えられる。
 信じられない。その笑顔も、言葉も、何もかも。
 どんな優しい言葉を口にしようと、その目は確かに語っていた。そう、あの言葉を――
 “お前さえ、いなければ――”
(!)
 は、と息をつめる。
 今その言葉が、確かな音をもってキレスの脳裏によみがえった。
 それはしかし、千年前の地属の長の年老いた声とは違っていた。
 それは、少年の、声だった。
 闇の中にうっすらと光がさす。狭く閉じられたその場所の、扉が、開かれたために。
 誰かが入ってきたのではない、ここから、出て行こうとしていた。
 同じ、この場所にいたはずのものが、自分を置いて、ひとり、外へと向かう。
 ずっと同じであったものが、今、切り離されて。片方は闇に残され、もう片方は光に向かう。
 光へ向かうもの、それは、キレスがこの闇色の意識の中で手を伸ばし、触れようとしたもの。求めていたもの、そのかたち。闇に隠されてそこに存在すると、思っていたもの。
 とうの昔に、切り離されてあった。自分を置いて、離れていってしまっていた。
 なぜ、切り離されたのか。ずっと一緒であると思っていたのに。
 なぜ彼は外に出られるのか、なぜ許されるのか。
 なぜ自分は許されないのか。
 なぜ、自分とそっくり同じ、その瞳を、冷ややかにすぼめてこちらを見るのか。
 自由を手に入れようとするものが、なぜ火のような憎しみを込めてその言葉をつむぐのか。
(なんで……なんでお前が言うんだよ)
 自分の手に入らないものを何でも持ってるお前が。
 同じであるときは比べることもなかったのに。切り離されたのは、違いを見せ付けるためなのか。
 なぜ同じように分けなかった。顔や姿を分けるように、何もかも同じにしてくれれば良かった。
 認められるものをすべて奪い去り、要らないものをすべて押し付けて、お前はここから出て行くんだ。
 それだけで十分だろう、もうたくさんだ。
 これ以上ないほどぼろぼろなのに、その上まだ踏みつけるように、その言葉を口にするのか。
(お前が、なんで、それを言うんだよ……ケオル――!)

 “――オマエサエ、イナケレバ……!”

 ……闇の渦が体の底から湧き上がる。
 キレスはいつものように身体を超えて溢れ出すそれを、溢れるがままに任せた。
 意識を払いのけるのでなく、意識がそれに乗るようにして、満ちる。今その憎悪をはっきりと知り、その上に力を重ね合わせるようにして。
 ざあ、と広がる黒髪。具現化した闇が放射される。空間を歪めるその力の端で、砂をすり合わすような、何かを引き剥がすような音が小さくあがった。
 宙に身を留め、まぶたを押し上げるとそこに、紫水晶の火を灯す。
 意識を戻したキレスはすぐに、傍にある気配の主を捉えた。紅の眼がキレスを見上げる――フチアだ。
 先ほどキレスが放った力に触れたのだろう、その右脇腹の一部はえぐられたように、赤い肉を覗かせていた。
 その様子にキレスは驚く素振りも見せず、代わりに、その瞳はまるで汚れたものを見るように、ぎゅっと細められる。
「あんた――」
 キレスは、言いかけたその言葉を自嘲するようにふっと表情を崩す。
 フチアはただ無言でキレスを映していた。流れ出る鮮血にかまう様子もなく、その表情は氷に刻み込んだように変わらない。
「俺を救いに来たの? ごくろーさま……」
 もう一度口を開き、キレスは感情なく言い放つ。けれど口元はみるみる歪んでゆき、目にははっきりと、憎悪の色が浮かべられる。
 闇が、再び湧き上がるのを感じた。
「……俺は、あんたを許さない」
 キレスは低く声を漏らす。湧き出る闇に支配されるがままに。
「あのとき、俺は確かに一度、死んだんだ」
 十年前、赤い火に呑まれたあの記憶を、忘れない。
 張り付く死の恐怖。何も知らなかった、幼い自分にしたその仕打ちを。
 焦げつく匂いと、あの色を。
 伸ばされた腕は助け手であると信じた、その直後、
 見開かれた目に映る、今と同じ、無感情な目。
 希望が絶望に変わる、その瞬間――。
「あんたに、殺されたんだよ――!!」
 放たれる力。玉のように弾ける鮮血。
 壁に敷き詰めた青いタイルに皹が走り、柱は音を立てて砕かれる。
 胸のうちに残された傷を、その場所にくっきりと刻み込んで、――キレスはその場から姿を消し去った。