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幻燈館殺人事件  前篇

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「……私の望みは、ささやかなものでした。私のような市井の人間が九条家の長男であらせられる怜司さんと、結婚出来るなんてそんな大それた事、思ってはいなかった。ただ、ただお側にいたかった。やがて怜司さんがしかるべき相手とご結婚なされるその時まで。それだけの事だったんです」
「本当に……君が?」
 膝を床に付き、両の手で顔全体を包み込むようにしながら、怜司はくぐもった声で彼女に問うた。
「はい、私が――」そう言うと彼女は怜司の傍で同じように膝を折り、上着の袖をそっと捲った。
「怜司さん、これを見て下さい」
 怜司が言われるがままに彼女の剥き出しになった腕に視線をやると、そこには古い傷痕が残っていた。大人の人差し指ほどの長さの赤く膨れ上がった傷――。
「これは……」
「私が幼い頃に叔父の仕事の手伝いをしていた時に、不慮の事故で負ってしまったもの……。私はこの醜い傷をとても気にしていました。でも怜司さんは私のこの傷に唇を這わせると、全て愛しいのだと――そう言って下さったではありませんか。私があの時どんなに嬉しかったか……!」
 瞳に涙を滲ませた桜子の腕をぐいと引き、怜司はその傷をまじまじと見つめた。
「確かに……この傷は桜子の……。それに今こうして耳を澄ませば、その声は間違いなく桜子じゃないか……! 俺は今までただの使用人だと思って、君の声など気にも止めてはいなかった。こんなに近くに居たのに、気付かなかっただなどと……! 桜子、許してくれ」
「許すだなんて……私の方こそ……だって私は」
 そこで一度言葉を区切ると、桜子は意を決したように続きを告げた。
「だって私は人殺しですのよ」
 罪人である自分が涙を流すことなど許されないとでもいう風に、桜子は静かに目を伏せた。
「……全てお話して頂けますか?」
 二人の心情を慮ると先を促すのは忍びなかったが、花明がそっと先を促した。
「全てを……? いいえ、それは」
 桜子が言い淀むと、怜司は彼女をそっと抱き締め首を横に振った。
「俺の事を気遣っているのなら構わない。俺だって全てを知りたいんだ。代美の死の真相なんかじゃない、空白の五年の君を知りたいんだ。桜子の事が知りたいんだよ」
「けれど……ああ! 私がお話する事は、きっと怜司さんを深く傷つけます」
「君はもっと傷ついているんだ。君の口から語られる真実に耐えられない程の心ならば、俺は俺を許せない。罪を知らなければ償う事すら出来ないじゃないか。どうか俺に教えてくれ。俺の罪を」
「私は…………」
 尚も口ごもる桜子に、花明は優しく声を掛けた。
「桜子さん、贖罪は罪人自身の救いでもあるのではないでしょうか」
 諭され、桜子は迷いを断ち切るかのように睫毛を震わせると、そっと目を開いた。
「……分かりました。私が知りうる事を、全て……全てお話致します」