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大坂暮らし日月抄

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 事務方執務所奥にある書庫が、座敷牢としてあてがわれた。窓がなく、黴を含んだような墨汁の臭いが充満している。
 机上には多くの書類が積まれている。机の左右、二箇所に行灯が灯されているだけである。菜種油が使われていた。価格高騰の折、魚油でなくてホッとした。魚油だとその臭いだけで、閉じられた空間にあっては作業などままならない。その心遣いに感じ入った。

 机の前に姿勢を正して座っていると、ようやく大橋三郎兵衛が姿を現した。急いで尻を後ろに引き、低頭した。
「待たせちょうた。頭、上げぃや」
 頭を上げると、にこやかな顔が目の前にある。
「使いのもん屋敷ぃやったら、そうりゃ皆、大喜びだしこ。ほいで、わいの祝言だがや、十日後に決まったちょう。いんやぁ目ぇ出度い。えがったろうがや」
「はい、ありがたき、幸せにございます」
 しんみりとした気持ちで、頭を下げた。

 晴之丞はこの十日間、早朝から夜更けまで、食事と休憩以外の時間は与えられた仕事に熱中した。
 薄暗い灯明を手元に引き寄せて、積まれた書類を一枚ずつ、丁寧に書き写していった。急いで書き取られた文字は、判別不明のものもある。それが当てはまる頁にはその紙片を挟みこんでおき、後に担当の者に問い合わせることにした。
 墨を磨っている間には呼吸を整え、それに集中した。保管文書の文字には、乱れは禁物である。
 それでもフッと、要らぬ心が入り込んでくることがある。
――もう、小雪のことは諦めるんだ。
 寝床に入ると、何度も自分に言い聞かせた。
 しかし毎朝、目覚める直前の夢の中に現れる。
 走って行く後ろ姿の小雪の肩をつかもうとして手を伸ばして追いかけるのだが、すんでのところで手は届かない。いつの間にか小雪は消え、換わって、目鼻のはっきりと分別できない女性が、両手を広げるようにして近づいてくる。立ち竦んで、その女性の背後を伺う。小雪が居るような、居ないような。
「小雪」と呼び掛けたところで、意識が呼び起こされる。夢の中に舞い戻って小雪を探そうとするのだが、夢の中にいる人物の姿かたちは次第にぼやけていき、覚醒するのだった。
作品名:大坂暮らし日月抄 作家名:健忘真実