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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 1~3

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 息を飲んで鼓動がおさまるのを待ってから口を開いた。

「篠山葉月です」
「ふーん、葉月ちゃんね。初めまして、高木です」

 品定めをするような厳しい目つきが緩んだかと思うと、握手を求められた。 大きくて力強い手のひらは、内側が熱を持って汗ばんでいる。

「それじゃ、やってみるか」

 高木はおもむろにドラムセットに戻って腰を下ろした。
 スネアドラム、ライドシンバル、タムタムやフロアタムを次々に叩いて見せる。
 ランダムに叩いていても、不思議と曲の世界が垣間見えるようだった。

 アルトサックスのチューニングの音が聞こえ、葉月はふと我に返った。

「すみません、おじゃましました」

 頭を下げて部屋を出ようとすると、またしても伶次に腕を取られた。

「何言ってんの、篠山さんも一緒にやるの」
「やるって何を……私、アドリブどころかコンボもやったことがないですし」
「違うよ。テナーサックスじゃなくて、こっち」

 伶次は巨大なアンプの上に置いてあったマイクを突きつけて言った。

「去年の学祭で歌もののビッグバンドに出てただろ? あのときの『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』をもう一回ここで歌ってよ」

 記憶が急速に過去に巻き戻る。確かに一年前、部員が立ち上げた即席のビッグバンドにヴォーカルとして参加したことがあった。
 歌ものなのになぜか歌はおまけで、バンドマスターを務めるギタリストの自己満足のようなバンドだった。

 葉月自身は歌ものからジャズの世界に入っていった経緯もあり、歌わせてもらえるならと喜んで参加した。

 注目されるのはあくまでも朗々とソロを奏でるギタリストで、ヴォーカルに意識を置いている者など、一人もいないと思っていた。

 演奏中は難しい顔ばかりしている伶次が、笑みを作ってマイクを握らせようとしてくる。

 葉月は渾身の力をこめて手のひらを引っ込めた。

「むっ……無理ですよ! あんなの全然、鞍石さんの期待にこたえられるものじゃ……」

「あの時のバックバンドはひどいものだったけど、篠山さんはいい声してるなって思ったんだ。俺、新人の堀出しにはけっこう自信あるよ。真夜を発掘したのも俺だからね」

 伶次の視線の先には背中を丸めて間抜けな顔をしたあの男がいた。
 伶次に指をさされ、突然、表情筋に力が入ったかと思うと、アルトサックスをかまえてわざとらしいポージングを取った。

 腹の底のあたりがざわついた。
 先ほどの彼らの演奏が頭の中に再現される。
 瞬く間に高揚感がよみがえり、大波が押しよせる前のように何かが奥に引いていった。

 伶次は口の端を持ち上げると、葉月のストラップからテナーサックスをはずしてマイクを握らせた。

 真夜の視線を感じた。
 指の先が小刻みに震えるほど気持ちは高ぶっているのに、心臓は妙に落ち着いている。

 伶次は床に寝かせていたウッドベースを持ち上げると、チューニングを始めた。
 高木は激しくドラムを叩きながら、ポジションの調節をしている。

 真夜がストラップを引き上げながら近づいてくると、伶次はウッドベースを抱え直して言った。

「キィはAフラットだ。おまえはフラットひとつ。いけるか?」
「そうですね、たぶん」

 真夜はセルマーのアルトサックスに強く息を吹きこんだ。
 葉月の両腕に鳥肌が立つ。

 真正面で聞いたら失神するのではないかと思うほど、体の芯が震える。

 その一方で、頭の中では冷静に歌詞を復唱していた。
 歌いなれた曲とはいえ、バンドで合わせるのは十か月ぶりだ。

「篠山さん、それ、マイク用のアンプだから、電源いれて」

 伶次があごで示したアンプがどれかわからず、マイクからつながるシールドを手繰りよせる。
 もたついている間に、高木はスティックでカウント音を響かせ始めた。

 伶次と真夜が楽器をかまえる。
 体にまとわりつく湿った空気が張りつめていく。

 イントロのアウフタクトからアルトサックスの音が入った。

 先ほどまでの彼らの姿からは想像しがたいほど、落ち着いた優しい演奏が流れる。

 真夜は目を閉じてゆるやかに楽器を鳴らす。
 夜空を流れる雲のようにゆったりとしたビブラートこそ、彼の本領なのだと感じた。
 ボサノヴァのスローテンポに乗って思う存分アルトサックスを鳴らし、心がゆるむ音色を最大限に奏でる。

 イントロの間、歌詞を間違えないために「いつも通りで」と呪文のように唱えたが、アルトサックスの音が耳に侵入してくると、揺れのひとつひとつに反応する体を抑えられなかった。

 歌が始まるテーマに入る直前に、伶次は目配せをして合図を出してくれた。

 ドラムのリズムを聞きながら、葉月は喉を鳴らす。
 決まったテンポでしか演奏しなかった即席ビッグバンドのときとは違い、少し調子がずれるだけで演奏の流れに影響を及ぼす。

 緊張して震える声を伶次がひろい、ドラムがベースラインをすくい上げる。

 真夜は、こわばりながら歌う葉月の様子をうかがいながら、邪魔にならないようにフレーズを組みこんでくる。

 歌詞とアルトサックスのカウンターメロディを何度かくりかえすうちに、真夜の口元にわずかに微笑みが浮かんだ気がした。

 2コーラス目からアルトサックスのアドリブが始まった。
 頭の芯に突き抜けるような激しい音は少しもない。
 盗み聞きしたときとは別の人物が吹いているのではと思うほど、やわらかで胸にしみわたるような演奏だった。

 真夜の合図でソロは終わり、最後に高木がバスドラムを踏んだ。

「いいじゃん」
「これでコズミックいけるでしょ」

 伶次がそう言って黒髪をかき上げると、高木は親指を立てた。

 二人の会話の意味はよくわからなかったが、満足そうな笑みを交わしているのを見て、葉月はようやく胸をなでおろした。

 熱い靄に包まれたような感覚が、演奏後も続いている。

 歌はいつも、テナーサックスを吹いた時よりもずっと深い振動を体に残していく。
 乾ききった喉に何度も唾液を流しこむが、追いつかない。
 鼓動が早く、足の先までしびれが走っている。

 マイクを握っていた手が膨れ上がるように熱い。
 手のひらがかすかに震えている。

 不意に肩を叩かれてふりむくと、ベースを抱えた伶次がいた。

「篠山さん、俺達のバンドでコズミックに出ない? もちろんヴォーカルでさ」

 彼の一言に、ステージに立つプレイヤーの姿が思い出される。

 伶次の言う『コズミック・ジャズ・フェスティバル』とは、このあたりの大学主催で毎年十二月に開催されている学生コンボのジャズライブだ。
 場所はブルー・ノート。
 学生では気軽に入ることができないこの場所を、二日間だけ貸切にして学生バンドの祭典をやろうと企画されたらしい。

「俺達は今度で三度目なんだ。篠山さんも、どう?」

 なんて気軽な誘い方で、とんでもないことを言い出すんだこの人は――と葉月は思った。


 ブルー・ノートといえば、プロを目指す人間なら誰もが憧れる音楽の聖地だ。
 海外から多くの大物アーティストが呼びよせられ、ときにチャージが一万円を超えるような一流の演奏が催される。