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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 1~3

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1.真夜中の星



 聴く者の心臓をわしづかみにして離さない響きに、葉月の足は立ちすくむ。


 
 大学ビッグバンドの夏合宿は、佳境を迎えていた。

 三日三晩、寝る間を惜しんで練習し続けた結果、気力が途絶えて脱落した者は楽器を抱えたままへたり込み、限界のさらに先にむかって邁進する者は、なお防音室にこもって譜面とにらみ合っている。
 
 二軍ビッグバンドのテナーサックスを担当する葉月は、ソロのパートを完成させられなかった自分に落胆しながら、廊下に出た。
 
 目の前に、スティックを抱えたまま寝てしまったドラマーや、遠い目をして何やらつぶやいているトランぺッターがいる。
 
 眠いなら割り当てられた部屋に戻ればいいのに、バンドの全体練習が終わった後もあきらめきれずにこうやって練習室の前にずらずらと並んで座っているのだ。
 
 葉月は首から下げたストラップにテナーサックスをつないだまま、指で下唇の両脇をもんだ。
 長時間マウスピースを噛み続けたせいで、口角のななめ下あたりにある筋肉がすっかり弛緩してしまい、楽器の中にうまく息を吹きこむことができない。
 
 譜面をにらんで前かがみになっているのも疲れたし、立ったままソロの練習をするのにも首に痛みを感じ始めていた。
 
 ショートパンツのポケットから携帯電話を取り出した。午前一時をすぎている。
 午前中にお披露目の演奏を全部員の前でやったあと、昼過ぎに宿泊所を発つ予定になっている。
 
 ソロの練習をするならもう今しか時間がないのだが、吹くたびに一層ミスをくりかえすようになってしまい、それならとっとと寝た方がマシだというあきらめの気持ちと、鳴り止まない他の部員たちと比べて自分は根性がないのだという自責の念がずっとせめぎあっている。
 
 素足で廊下のカーペットを踏みしめながら歩いていると、突如、アルトサックスの強烈な高音が右耳にとびこんできた。
 
 第二練習室の防音扉のすきまから淡い光がもれている。
 
 高鳴る心音を感じながら、荒々しい高速フレーズに引きこまれるように室内をのぞいた。
 
 紫のTシャツを着た小柄な男がアルトサックスを吹いている。
 
 猫背の男が首に血管を浮き立たせて、卵形の小さな頭を揺らすたび、楽器が金色の揺らめきを見せる。
 
 むき出しの細い腕からきゃしゃな手首が伸び、親指をのぞく八本の指が自在にキィの上をはい回る。
 
 一見すると乱暴に見える指使いにも法則があるらしく、一音ずつ譜面に書き起こしたような正確なフレーズを紡いでいる。
 時にリードミスが混じる激しいフラジオ奏法が、彼の演奏をアドリブのように見せているのだ。
 
 フレーズの途中でわざとらしくレイドバックをして、テンポを引きずったかと思うと、ある瞬間にすっと元のリズムに戻る。
 緊張の糸を緩めたように見せかけて、コーラスの最後にむかってアルトサックス独特の高音を響かせる。
 
 サックスの音色は聞きなれているはずなのに、男の痩せた頬が引きつるたびに、痛みをともなう高揚感が湧きあがり、背筋を震えさせる。
 
 汗ばんだ手で首からぶら下がったままのテナーサックスを握りしめると、一瞬、男と目が合った。
 
 胸を射抜かれたように、葉月の体は硬直した。
 
 練習室を満たす4ビートの振動。むせるような熱気と汗のにおい。
 巨大なアンプに流れる電流が、空気中の粒子を焦がして焼けつくような香りを放つ。
 背をむけたベーシストと片腕しか見えないドラマーも、憑りつかれたように音を紡いでいる。

 紫のTシャツの男が薄い胴体を前後させる。短い髪の毛から汗がしたたり落ちる。
 
 ベーシストが「真夜!」と声を上げると、男はアルトサックスをふりかざし、ドラマーとタイミングをあわせて勢いよくふり下ろした。

 胸を打つ鼓動がおさまらない。
 葉月はテナーサックスを抱きかかえるようにして壁にもたれた。

 あの中にいて一緒に演奏したかのように、額から汗がつたってくる。

 もう一度、防音扉のすきまをのぞいて、男の顔を盗み見た。
 年齢は葉月と同じくらいの二十前後だが、部員ではなく初めて見る顔だった。
 興奮が抜けきらないのか、瞳が不気味に光っている。

 金髪を逆立てた上半身裸のドラマーは見おぼえのある顔だった。
 現役の部員ではなく会話を交わしたこともないが、時々OBのビッグバンドに顔を出している人物だった。

 ベーシストはおそらく一軍バンドの――

「篠山さん、何してんの、こんなところで」

 防音扉が大きく開き、葉月はテナーサックスをかばうようにして、うしろに飛びのいた。

 頭の上から言葉を降らせたのは、一軍ビッグバンドでバンドマスターを務めている鞍石伶次だった。
 少し癖のある黒髪が、いつになく乱れている。
 
 四回生の今でも数多くのバンドをかけもちし、あちこちでライブ活動をしていることは誰もが知っている。
 周辺の大学ではよく顔の知れたベーシストだ。

 練習中はいつも近寄りがたい空気を放っていて、大学からジャズを始めたばかりの葉月から話しかけたことは一度もなかった。

「通りかかっただけなんです、ごめんなさい!」

 咄嗟にそう言って立ち去ろうとすると、腕をぐいとうしろに引っぱられた。

「ちょうどよかった。中に入って」

 断りの言葉を発するまもなく、葉月は練習室に引きずりこまれた。

 中に入ると、アルトサックスの男がすっきりとした表情で正面をむいて立っていた。

 薄茶色の短い髪に広い額で、同年代の男には似つかわしくない、つるりとした肌をしている。

 再び目が合うと、今度は男が先に視線をそらした。
 なで肩を下ろして落ち着きなく黒目を左右させている。

「あの……同じ大学の人じゃないですよね……」

 おそるおそる声を出してみると、男の肩が小さく動いた。
 そこへ伶次の白い手がのる。

「こいつは中学高校時代の後輩なんだ。今朝から裏手にある合宿場に来てたらしくってさ。バンドの練習が終わってから引っぱってきたんだ。うちの部にこいつほどサックスを吹けるやつはいないからね」
 
 辛辣な言葉をさらりと言ってしまうと、葉月の胸が痛む間もなく、男は体がふたつに折れ曲がるくらい深くおじぎをした。
 馬鹿にされているのか、大真面目なだけなのか、判別がつかない。

「それからドラムの高木さん。見かけたことはあると思うけど、俺の三つ上の先輩。プロのドラマーとして活動してるから、俺も時々、出演させてもらってるんだ」

 なぜ紹介されているのかわからないまま呆然と突っ立っていると、金髪のドラマーが立ち上がって近づいてきた。
 思っていたよりもずいぶんと背が高く、見上げないと顔が見えない。
 そばに立たれると、伶次よりもはるかに威圧感があった。

「お前がこないだ言ってたのって、この子のこと?」
「通りかかったんで、つかまえてきました。いい声してますよ」
「へえ、名前は?」

 高木は、葉月の瞳をのぞきこむようにして聞いてきた。
 鼓膜の奥をわずかに振動させるだけの低く通りにくい声が、胸の底へと降りていく。

 なぜ自分の声の話が出たのか、聞き返せないまま、心臓はせわしなく血液を送り出す。