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ベイクド・ワールド (下)

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 どちら? まったく意味が分からない。藤峰は鼻がしらを掻いた。
 僕は意を決して言い放った。「僕の前にこの部屋に住んでいた人物は僕の兄です。名前は深瀬徹」
 藤峰は小さく笑った。「ああ、まさに僕が会いたいのは徹だ。君の兄であり、そして僕の友人」
 僕は驚かずにはいられない、藤峰和夫が、深瀬徹の友人だということに。
「彼からは君のことをよく聞いていた」藤峰はそう言って、小さく笑った。
 その笑みにはいったいどんな意味があるのだ、と僕は思ったが、聞けなかった。
「今、藤峰さんは僕の兄と友人だと言いましたが、どのようなつながりですか?」
「簡単さ。大学の同級生だよ。」
 徹は人文学部で心理学を専攻していた。藤峰も同じ学部なのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。
「それで、どうしてここに?」僕は話を戻した。
「さっき言ったとおり、僕は徹に会いたかったのさ」
「そうですか」と僕は言った。そして、迷うことなく、僕は言い放った。「兄は四年前に死にました」
 藤峰は間髪入れずに「ああ、知っているさ。自殺だろう?」と言った
「どうして知っているんですか?」僕は自分の語調が強まることを感じた。
「当たり前だろう。彼とは友人だ。彼が自殺した理由もすべて知っている」と藤峰は言った。「ところで、君は彼が何故、自殺したのかは知ってるのかい?」
「知りません」と僕は冷たく言い放った。
 藤峰は虚無の瞳で僕を見つめた。「彼は君に手紙を残したはずだ」
 僕の頭に瞬時に『深瀬亜季ニ宛テル』という青色の文字で書かれた封筒が浮かんだ。
「何故、藤峰さんがそのことを知っているんですか?」僕はさらに混乱した。混乱しないわけがない。
「君はその手紙を読んでいないのかい?」
「読まずに、捨てました」
 藤峰は腹をかかえて笑った。「彼の言うとおりだったな」と藤峰は言った。
「どういうことですか?」
 藤峰は笑いを静めてから、「つまり、君は、彼から、とても愛されていたということだよ」と言った。
 意味が分からない。
「僕には君にいろいろと伝えなくてはならないことがある。ただ僕は君がそれを知りたいかどうか、確かめなければならない。そういう決まりなんだ。君は彼が死んだ理由を知りたいかい?」
「別に知りたいとは思いません」
「本当に?」
「はい」
 藤峰は、黙ってジャケットの胸ポケットから『何か』を取り出した。そして、その『何か』を僕の前に掲げた。僕は驚かずにはいられなかった。それは封筒だった。そして、封筒の表面には『深瀬亜季ニ宛テル』と青いボールペンで書かれていた。四年前、死んだ深瀬徹の胸ポケットから見つけ、破り捨てて、用水路に捨てたものだ。それとまったく同じ物がそこにあったのだ。
「どうして……。どうして、藤峰さんがその手紙をもってるんですか?」声が震えた。
「つまり、僕は君に彼の伝言を伝えに来たんだ。彼が自殺する前、僕は彼とある約束を交わした。それは『四年後に僕が再びこの場所に来ること』だ。四年前の段階で自分が自殺したときに君が自分の手紙を読まないだろうということを予想していた。それを、再度、君に伝えるチャンスとして僕がその役目をおった。だから、僕には徹の遺志を彼の弟である君に伝える役目があるんだ。君は四年たった今、再び選ばなくてはならない。彼の思いを受け止めるか否かを」
「彼の思いなど受け止める必要なんてありません。自殺した人間から伝えられる思いなんて何の意味ももたない」僕は、そう言った。自分でも驚くくらいに、口調が冷たかった。
「それはわからない。彼が自殺した理由はここに全て書かれている。君への想いも、ここにすべて書かれている。それを知りたいとは思わない?」
「藤峰さん」と僕は言った。「突然現れて、そんなことを言われても、僕にはどうすればいいのかわかりません。しかも、それが藤峰さんであることに僕はとても混乱しています」
「そうかもしれない」と藤峰は言った。「確かに混乱するだろう。この選択には多大な時間を要するかもしれない。ただ、いくら時間がたっても構わない。必ずどちらかを選択するんだ」そう言って、彼は封筒を僕の身体に押し付けた。僕はそれに手を出さず、手紙は藤峰の手から滑り落ち、床にすとんと落ちた。
「突然ですまなかったね」と藤峰は申し訳なさそうに言った。「ただ、僕は君がライブ会場に現れたとき、とても驚いたよ。こんな偶然があるのかってね。まるで、ふと壁掛け時計を見たときに四時四十四分だったくらいの驚きだ。それくらいに僕は驚いたんだよ」藤峰はおどけながら、そう言ったが、僕は笑わなかった。
 藤峰はすぐに真面目な口調に戻して、「もう一つ、君に言わなければいけないことがある。それは、つまり……申し訳ないけれど、この手紙は、僕らは読ませてもらった。それも僕らと徹との間で交わされた約束だから、許してくれ。僕らの役割は『徹の弟である君に出会い、再び手紙を読むかどうかを問うこと』。もし、『君が読まなかった』、あるいは、『読んでも答えを出さなかった』場合に、僕らは徹の遺志に従って行動に移さなければならない。君の代わりを僕らがやることになる。それだけは申し訳ないが了承してほしい」
 僕には藤峰が言っている意味が理解できない。ただ、一つだけ質問をした。「今、『僕ら』って言いましたけれど、藤峰さん以外にも誰かいるんですか?」
「THE BAKED WORLDのメンバーだよ。僕たちは、徹のためにこの場所に戻ってきた。君がもし彼の手紙を読むという選択をするならば、僕らは行動せずに済む。すべては君の決断にかかっている、というわけだ」藤峰はそこで一度、黙った。それから、「じゃあ、時間をとらせて済まなかったね。僕はもう行くよ。君が良い決断をすることを僕たちは願ってる」と言って、去って行った。
 僕は玄関の扉を力なく閉めた。深い沈黙がアパートのなかに訪れた。黴の臭いが鼻をついた。封筒は僕の足元に落ちていた。『深瀬亜季ニ宛テル』と書かれた面が上を向いていた。
 どうやら深い眠りに落ちていた『ベイクド・ワールド』は知らぬうちにそっと目を覚まし、変な方向へと物語を動かしはじめたようだった。