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ベイクド・ワールド (下)

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第十一章 奪った日常と、奪われた非日常、その反転に関する考察



【ベイクド・ワールド〜めぐりめぐる奇妙で不思議な世界〜(上)のつづき】

 僕は静岡駅北口にいた。自分でも不思議だった、僕は新しい服を買うために静岡駅に訪れたのだ。いや、この台詞には少し語弊があるかもしれない。つまり、僕にとって新しい服を買うことが不思議だというわけではなくて、『誰かのために』新しい服を買いそろえるということが不思議だったのだ。
 その誰かとは、つまり、玲のことだ。僕と玲は珈琲ショップでの短い電話のなかで外に出ることを約束した。それは僕にとってとても嬉しいことだった。それは、これまでの人生でもっとも嬉しかったこと、と言っても過言ではないほどに。
 つまり僕は彼女と外を歩くときのための新しい服を買いに来たというわけだ。僕はこれまで生きてきたなかで誰かによく見られたい、というような感情で服を買うことなんて一切なかった。無論、必要最低限で外見を整えるのは当たり前なこととして、それ以上に外見を良くしようと思ったことは一度たりともなかったのだ。だが、今回だけは違った。僕は玲のためにこそ、身なりを整え、外見だけでも良く飾ろうと思ったのだ。そう思った自分がこの上なく不思議で奇妙だった。
 僕は静岡駅の地下道へ降りた。多くの人々が地下道のなかを行き交っていた。あちらから歩いてくる人々とこちらから歩いていく人々。それらがぶつかり合わずに華麗にすり抜けていく。それは、見事というより他ならなかった。その二つは決してぶつかり合うことがないのだ。すれ違うだけで、ぶつかることはない。そのとき、僕はふと思った。きっと、この場所を歩く人々は僕の人生に一切の関わりをもたないだろうな、と。僕の人生に関わりをもつ人間とは、いったいどれだけいるのだろう。きっと、少ないだろう、と僕は心のなかで結論づけた。ただ確かなことは、僕は自分の家族とは一生関わり続けていくのだ。それは当たり前のことだけれど、不思議なことのように思えた。
 僕が吹き抜けのある地下広場に出て、そこを抜け、さらに地下道を進んでいくと、以前もその場所で見かけたポークパイハットの初老の男が僕の目に映り込んだ。以前と同じように、彼は黒スーツを着ており、首からは『霊感あります (自称)。 お悩み、ご相談、なんでもござれ。』と書いてあるプラカードをぶら下げていた。彼は二人の若い警察官と何やら話をしていた。警察官はチビと大男といった対照的なコンビだった。どうやら、男は職務質問を受けているようだ。
「ちょっと、だめだよ。こんなところで占いなんかしちゃあ」とチビの警察官が言った。「ちゃんと許可とって、やってんの?」
「許可なんて取ろうにも取れないじゃないか」と初老の男は反論した。「今すぐ、あんたから許可を貰えるのか? どうせ、貰えないだろうが!」
「そんなに声を荒げないで。別にあなたを逮捕しようってわけじゃないんです」と大男の警察官が言った。「ただ、注意をしに来ただけです」外見によらず、チビよりも大男の方がいくぶん落ち着いた雰囲気があった。
「こんなところで霊感商法されてちゃあね、不審がられても不思議じゃないだろ? 悪いけどな、あんたの身元を調べさせてもらうよ」とチビが言った。「名前は?」
「カサイ」と初老の男はぶっきらぼうに言った。チビはメモを取った。
「自宅はどこ? 住所は?」
「そんなものはない」
 チビは男の身なりをまじまじと眺めてから「ホームレス?」と言った。
「ホームレスという言葉は好かない。路上生活者と言ってくれ」
「じゃあ。路上生活者?」とチビはさきほどと同じ声色で言った。その質問に、意味があるのか、と僕は思った。
「ああ」とカサイは答えた。
「家族は?」
「そんなものはいない」
「身寄りがない?」
「ああ」
「年齢は?」
「たぶん、50歳くらいだ」
「たぶん?」
「もう、年齢なんて覚えちゃいないんだよ。あんたは路上生活をしたことがないから分からないんだろうけどな、路上では普通の生活とは時間の流れが違うんだ」カサイは声を荒げた。
 チビはため息をついた。「ああ、悪かったな。知らなくて」チビの言葉の響きにはいくらか侮辱ともとれるような響きがあった。「ところで、あんたは、ここでいったい何をしてるんだ? 明らかに霊感商法のようなことをしているように見えるがね」チビはそう言って、カサイのプラカードをこつこつと叩いた。
「霊感商法なんかじゃない。ただの占いだ」とカサイは言った。
「でも、その占いとやらで報酬を貰ってるんだろ?」とチビは言った。
「そんなもん、貰ってねえよ。金じゃないんだ」
 チビはあからさまに不審そうな顔をカサイに向けた。「金じゃないなら、なんのために、あんたは占いをやってるんだ?」
「ただの暇つぶしだよ」。
 チビはさっきよりも長いため息をついた。「その鞄のなかを調べさせてもらう」とチビは言った。カサイの足元には黒いアタッシュケースのような鞄が置かれていた。チビはきっと、そのなかに何か怪しいものでも入っていると考えたのだろう。
 カサイはだまって、鞄を手にとり、ぱかりと開けた。だが、そこには怪しいものなど、何もなかった。そもそも、そこには何も入っていなかったのだ。まったくの空っぽ。チビは目を丸くしてから、再びカサイのことを不審がって眺めた。しばらく眺めたあと、アタッシュケースを閉じ、ふん、と鼻を鳴らした。
「いずれにしても」とチビは指をたてながら言った。「ここで、突っ立って、そんなプラカードをぶら下げてちゃあ、怪しまれても仕方がないんだ。今日のところは、大目に見てやるから、とっとと、この場所から出ていくことだ」と言って、チビはその場所から離れていった。大男の警察官は、カサイに「失礼な言動があったかもしれない。申し訳ない」と言って頭を下げてから、「ただ、こういうところにいる人間に対しては、我々警官は黙って職質をしなければならないんだ。それが役割だから」と言った。それから、チビに着いていった。どうやら大男はチビの部下だったのだろう。
 役割、と大男は言った。警官としての役割、と。人間とは類型的な役割に支配される動物なのだ、と僕は心のなかで呟いた。たとえば、警官は警官らしい態度をとらなければいけないし、路上生活者は路上生活者らしい態度をとらなければならないのだ。人は、与えられた役割を疑うことなく忠実に遂行しなくてはいけない。きっと、そういうことだろう。