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 話を人文主義に戻しましょう。ルネサンス期の人文主義者たちにとってことに重要だったのは、古代ギリシア、ローマの哲学における人間の自由意志の捉え方でした。人間は自らの知性や努力によって運命を切り開く力があるのだ、この力の行使こそが人生の本義なのだ、という自然主義的人間観であります。「フォルトゥナ(運命の女神)は勇者を好む」という古代ローマの格言が、人文主義者たちのスローガンともなりました。
 自由意志を備えた自然主義的人間観、といえば、皆さん、ここで『すべてを見たる人』のことを思い出していただきたい。そしてわたくしが、『すべてを見たる人』が、アリストテレスが『詩学』で言うところの良い悲劇の条件に倣ったかのように、神々は"筋の外"に置かれていると申し上げましたことを。『すべてを見たる人』は、人間ギルガメシュの自由な意志によってのみ筋が運ばれていくのです。
 アリストテレスは『詩学』において、良い悲劇は、自然法則と人間の意志によってのみ物語の筋が進行しなければならない、と言っております。筋に超自然的不条理があってはならない、と言うのです。わたくしには当然なことのように思えます。唐突に神が事を丸く治めた、ですとか、神の怒りが二人の愛を壊した、などという話、面白くも悲しくもありゃしません。白けてしまいます。そしてギリシア悲劇の殆どと、『すべてを見たる人』は、実際に筋に超自然的不条理がなく、ゆえに面白く悲しく感動的にわたくしには感ぜられます。しかしこれは単に物語劇がわたくしたちに引き起こす美的ないし娯楽的効果の問題というだけでなく、シュメール人と、おそらくはその伝統を少なからず引き継いでいる古代ギリシア人の、自然主義的人間観をくっきりと明示してはいないでしょうか。
 またシュメールの昔に行ってしまいましたが、イタリアルネサンス期に帰りましょう。それでこの生来的に自由を備えた自然主義的人間観は、アウグスティヌス的キリスト教の神の捕囚たる超自然的人間観とは相容れないものです。個人の知性を、行為を、人生を、神の手から-正しくは権力者ないし教会から、でしょう-取り戻して、手に入る限りの書物を学び、自然を観察し、それら自らの努力で得た知見を拠り所に、自らの知性によって自己を打ち建て、善と悪を峻別すること。その自ら探求して得た原理に従って、公共社会において行為すること。公共社会に、世界に、宇宙に、唯一無二のものとして自ら創造した自己の力によって働きかけ、影響を与えるものとしての、人間の生。それはすなわち、"徳(Virtus)"という語の古代ローマ以来の再生でした。「徳(Virtus)という語は男(Vir)という語を語源とする」というキケロの言辞から、ウィル・ウィルトゥティス(Vir virtutis.徳ある男。真に男らしい男)という人間像が導かれ、これこそが人文主義者たちの理想的人間像でした。このような人文主義の自然主義的個人主義的思惟方法には、哲学的倫理的な意義だけでなく、政治的な意義が強くありました。人文主義の人間観は、公共社会への個人の自由で平等な参加、そこで自ずから生じる個人の公共的権利と義務という観念の論理的帰結をももたらしたからです。ルネサンス期の人間性の再生は、古代の氏族制小規模社会の崩壊以降、中世的封建的政治ないし宗教の強制力によって長く死滅していた、個人の自由で創造的な、尊厳ある人生の、公共社会への再生でもあったのです。
 ところでこの、人文主義者たちの理想像たる、自ら探究し、自ら創造した徳という原理によって公共社会において行為する、真に男らしい男。彼は、人文主義者たちによれば、比類のない名声を獲得します。彼らにおいては、それこそが人生の目的であり意義でした。しかしわたくしが思いますに、彼の名声は、彼が公共の善に尽くすのを見たある人が、たまたま称賛すべきであると感じたときに生ずるというだけではないでしょうか。称賛を求めて行為をしても、称賛してもらえなかったらどうでしょう。彼は称賛されないことを不満に感じ、称賛しない人を愚者だと烙印するかもしれません。他人に称賛されようと、非難されまいとおずおずしているような人には、徳と呼べるようなもの何かありゃしません。ですからわたくしでしたら、他人から受ける名声を追い求めて行為するのではなく、その前の段階、公共の善となる効果を追い求めて行為し、その効果を見て、他人によってではなく、自らによって満足する人をこそ、真に男らしい男、真に女らしい女、と呼びたいものであります。