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自然主義⇒独創性。レオナルド・ダ・ヴィンチ


 さて、西洋近世の入り口、ルネサンス期における、自然主義的思惟方法の再生は、人文主義という語が内包するところの、政治的倫理的哲学的側面においては、極めて概説的ではありますが、だいたい以上のようなものでした。それが今日私たちに馴染み深い、民主主義、自由主義、個人主義といった政治哲学、倫理哲学上の諸理念と、近代的自然科学とを招来した事情については、盛んに論じられてきたことですから、ここでは省略いたしましょう。
 ではこの頃、この自然主義的潮流の、芸術への波及はどうだったのでしょうか。皆さんもよくご承知でありましょう、それは甚大なものでした。ミケランジェロのダヴィデ像の写実表現がございます。先にご紹介したラファエルロの『アテナイの学堂』に列した古代ギリシア、ローマの自然主義者たちの勇姿と、その遠近法表現がございます。そしてこの自然主義的潮流が頂点に達したのは、今から皆さんにご紹介するひとりの画家においてであったと言って間違いないでしょう。皆さん、わたくしは皆さんに彼をこうご紹介いたしましょう。ギルガメシュの末裔、レオナルド・ダ・ヴィンチ、と。
 レオナルドの経歴やら、画業、軍事兵器や飛行機、化石に至るまでの広範な研究についてなどは、今日では広く知られていることですから、ここでは触れますまい。わたくしはもっぱら、彼の自然主義的思惟方法について、彼の本業の絵画を題材に、皆さんと一緒に見ていこうと思います。皆さん、そうすることによって、自然主義的思惟方法によって何が起こるのか、また超自然主義的思惟方法によって何が起こるのかをひとつ調べてみましょう。と言いますのは、先に"政治と芸術のギルガメシュ的形態"について申し上げましたように、わたくしは今日の結論において、自然主義的思惟方法を支持したいからであります。そうです、わたくしは皆さんにわたくしの結論を支持していただくために、自然主義的思惟方法がわたくしたちに引き起こす効果が、わたくしたちにとって善いものだと、皆さんに説得力を持って明示する必要があるのであります。
 前置きが長くなりましたが、ではやってみましょう。この絵をご覧ください(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Leonardo_da_Vinci_-_Virgin_and_Child_with_Ss_Anne_and_John_the_Baptist.jpg/762px-Leonardo_da_Vinci_-_Virgin_and_Child_with_Ss_Anne_and_John_the_Baptist.jpg)。
 これは今日、『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』と呼ばれておりまして、ロンドンのナショナル・ギャラリーにあります、レオナルドの作品です。1500年頃の作と言われておりまして、紙に黒チョークで描かれたものです。「何だ未完成ではないか」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし皆さん、完成とはいったい何を言うのでしょうか。作者が「完成である」と思ったときでしょうか。しかし作者において完成とは、すなわち放棄と同義であります。それは探究の、努力の中断という事象です。レオナルドはここまで描いて、これ以上は描かなかったのです。ですから少なくともレオナルドにおいては完成したと呼んでも差し支えないのであります。
 ともかく、絵を見てみましょう。いまわたくしたちは、レオナルドがこの絵を描くとき、わたくしたちがこの絵を見るとき、それぞれ何が起こるかを調べてみましょう。まずレオナルドにおいてはどうでしょう。レオナルドは、四人のモデルの人間を見るでしょう。この絵を描くときレオナルドがモデルを見たのかどうか、伝わっておりませんから、わからないのですが、ここではそういうことにさせてください。それでレオナルドは、モデルをどのように見て、どのように感じたのでしょうか。またどのように描いたのでしょうか。レオナルドは、膨大な手記を書いていました。光、水、地質、動植物…万物についての一大研究ノートであります。それらは多かれ少なかれ絵画の創造という一目的に向けられていたようにわたくしには思えますが、とにかくほとんど自然すべてについての彼の観察と実験、考察の記録であります。それはレオナルドの死後しばらくして一度四散し、多くが失われたものの、なお大量に現存しております。そこでこの手記から、レオナルドの物-自然-の見方と、彼の創作の態度をうかがわせる部分を探してみましょう。いわく、
 「創作者…自然と人間とを通訳する人間」
 「他人の労苦の成果で自分の身を飾りめかしている者は、自分自身の労苦の成果を自分自身に与えようとしない…いやはやこの輩、私の仕事が他人の言辞ではなく経験から引き出されることをご存知ない…私は経験を先生としてあらゆる場合にその援助を仰ぐ」
 「創作者でなく他人の作品のラッパ卒兼暗唱家にすぎないやっこさんたち」
 「経験の弟子レオナルド・ヴィンチ」
 「研究者諸君、ただ想像によって自然と人間の通訳者たらんと欲した著述家連を信じるな…経験の諸結果によって、自分の天分を磨いた人々を信じたまえ」
 「おまえが水を論じる場合、まず実験を、しかるのち理論を述べるように覚えておけ」
 「問題について一般法則を立てる前に、二度三度それを試験して同一結果を生ずるか否かを観察せよ」
 「その理論が経験によって確証されないあの思索家たちの教訓を避けよ」
 「自然を考察する諸研究の中で光こそ観照者を最も歓喜させる」
 「自然の発明には何一つ過不足がない」
 「錬金術…なぜ君は自然が金を生み出すところ鉱山に出かけないのか。そこに行って君は自然の弟子になれ。そうすれば自然は君を迷夢から覚ましてくれるだろうし、かつ自然が金を生むに用いるものは君が炉の中で金を得ようとして用いるものとは似ても似つかぬものであることを君に明示してくれる…金鉱脈を充分に考察せよ」
 以上のようでありまして、換言いたしますと、他人に聞いたことによる固定概念、よく観察しもしない妄想を差し挟まずに、自然を注意深く見たまま、ありのままに、自らを拠り所に認識し、この経験のみを用いて創作するという態度であったようなのです。ですからレオナルドが四人のモデルを見たとき、この絵を描いているときには、次のように見ただろうとわたくしは推察します。
 「これはこのような自然の形である。これらがこのような位置にあるとき、特に美しいからこうしてみよう。よし、これをそのまま描いてみよう。ああ、やはり美しい。しかしところでこれは何だろう」