みんなの人生の果実をみんなで食べよう
超自然主義的承認強要原理
さて、では一方、超自然主義的観点と思惟方法は、わたくしたちにどのようなことを引き起こすのでしょうか。それを皆さんと一緒に調べるために、ここで、5世紀にアレクサンドリアの総主教だったキュリロス(376-444)に登場してもらって、ちょっと汚れ役を引き受けてもらいましょう。何しろ彼はわたくしが思慕するヒュパティアを殺害し、自然主義学術の最後の砦、アレクサンドリア図書館を破壊した張本人と目されておりますから。これが彼です(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/Rousanu16.jpg)。レオナルドがそんなものは誰も見たことがないと忌避したという光背を従えております。いよいよ超自然主義者に間違いございません。
さてレオナルドの時と同じように、彼に絵を描いてもらいましょう。と申しましても、彼は画家ではありませんから、彼の絵は残されておりません。この上は、伝承されている彼の事跡から演繹して、彼の描く絵を蓋然的に求めましょう。
キュリロスは、キリスト教教義の論争を積極的に行って、イエスは神であるからマリアは神の母である、と素朴単純な超自然主義を主張して、論敵を次々と葬ったことで悪名轟いております。キュリロスは、イエスにもマリアにも会ったことがないでしょう。見ていないものについてこれはこうである、と主張して、批判する者を排斥していたのですから、彼は他人に聞いたことを、自分自身で自然と照合してよく確かめずに、また自分の妄想を自然と照合することなく真理と見る、超自然主義的観点、思惟方法を用いていたことでしょう。ですからもし彼がレオナルドの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』と同じ構図の絵を描くなら、モデルを使うとしても、あまり熱心に観察することなく、
「これは神イエスである。これは神の母マリアである。これは神の母の母アンナである。これは幼児聖ヨハネである。彼らが何をしていようとどのような位置にあろうとこれは偉大で尊いものである。ゆえにこの絵を見た者は、この絵に畏敬の念を抱かねばならない」
というふうにでも思いながら描いたかもしれません。
ではこのキュリロスの絵は、キュリロスとわたくしたちにどのような事象を引き起こすでしょうか。もしもわたくしたちが、キュリロスと同じような、他人に聞いた超自然主義的既成概念によってこの絵を認識したならば、わたくしたちはキュリロスと合意できることでしょう。それは端的に、わたくしたちがキュリロスの主張するところのキリスト教教義を承認して、信じ奉る、キリスト教徒となるということになるかと思います。
では、もしもわたくしたちが、レオナルドの絵において見てきたような自然主義的観点、思惟方法で、このキュリロスの絵を見たなら、どのようなことが起こるでしょうか。わたくしたちは、
「これはそもそも何だろう、ぼんやりしていてよく見えない」
と感じるかもしれません。キュリロスは、自然をよく観察して紙に写し取っていないからです。ではちょっと、キュリロスに尋ねてみましょう。
「キュリロス、これはそもそも何ですか?私にはぼんやりしていてよく見えないのですが」
キュリロスは、先ほどわたくしが推察しましたところの、描いているときに思っていたことを以て答えるかもしれません。しかしそれはわたくしたちは聞くことはできても、見ることができませんから、本当にそうなのかどうか確かめることができません。
「私にはそう見えません」とでも言いましょうか。でもこんなことを言いますと、キュリロスは怒るかもしれません。自然主義者ヒュパティアを殺し論敵を葬り続けた人ですからね。どうも恐ろしいことが起こりそうですから、わたくしたちは彼と対話することをやめて、彼から逃げたほうがいいかもしれません。どうやら彼においては、わたくしたちが彼の見解を承認しない以上、わたくしたちと彼とは合意を形成することができないようです。実際にはこれは、合意とは呼べません。承認の強要です。そしてわたくしたちが承認を拒絶すれば、紛争に発展する次第となるでしょう。
皆さん、これが、わたくしが観察しました、超自然主義的観点、思惟方法がわたくしたちに引き起こす事象であります。すなわち、もしも全人類が、ある人が考えた教義を承認すれば、平和で楽しい社会となるかもしれません。超自然主義的教義的宗教組織の信者の主張は、端的にこのようなものでしょう。個人は個人的懐疑を捨てて、公共的平和の為に皆が信じるものを信じるべきだ、と言うこともできそうです。しかしこれですと、一部の人の恣意的な見解によって、個人の行為の原理や価値観が、定められてしまいます。皆さん、ルネサンス期人文主義による、個人の知性と自由な意志の行使の再生、それ以前の、権力者ないし教会による、人間を土人形のように隷属させる抑圧的支配を思い出していただきたい。さらにこれは安直なまでに広く論じられておりますけれども、あえて加えて申し上げますと、超自然主義的承認強要原理によるところの、不条理な異端審問と残虐な火あぶり、十字軍やアメリカ大陸のコンキスタドールたちによる略奪や虐殺、さらには今日もなお世界の各地で戦火がやまぬところの宗教的紛争というような事例は、やはり超自然主義的思惟方法の問題点を、これ以上なく簡明に示しているものではないでしょうか。
このようなわけですから、わたくしは、承認の強要に伴って生ずるこのような暴力を退けるために、先にレオナルド・ダ・ヴィンチの絵によって皆さんと一緒に調べましたところの、自然主義的独創性による合意可能性を、わたくしたちの個人的生と公共社会とにおいて活用するのが善いと思います。しかし実はいま白状しますとわたくしは、自然主義的観点、思惟方法の効果について申し上げましたときに、あるひとつの問題を棚上げしました。
みなさん、自己の問題であります。「自然を妄想や既成概念を差し挟まずにありのままに見る」ですとか、「自然をそのまま自己に写し取る」というようなことを申し上げました。しかしこの、認識主体たる自己とは、そもそも何なのか、どのようなものなのかについて、わたくしは触れませんでした。独創性と申しましても、独創する者とは誰なのでしょうか。
「何を言っているのだ、私に決まっているではないか」
作品名:みんなの人生の果実をみんなで食べよう 作家名:RamaneyyaAsu