小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』

INDEX|7ページ/39ページ|

次のページ前のページ
 

 別に、ミドリさんとお近づきになりたいわけではないとここで明確にしておこう。ただ、やはり男の性(さが)として、やはり美人さんとお話するのは緊張するわけで、しかしお話はしたいわけだ。あわよくば、とびきりの笑顔を拝見させていただきたいし、淡く情欲を掻き立てられるような香り(脳内妄想)を堪能したい。
「うっし」顔、ぱんぱんと叩く。「いつぅッ!?」強く叩きすぎたが、気合は入った。
 人差し指で、ぐっと呼び鈴の黒ボタンを押し込んだ。浮ついた俺の心を表している様な軽い音が鳴った。
「…………?」
 返事がない。しかし、ただの屍ではないだろう。 
 もう一度、呼び鈴を押そうと思った時、中で人の動く気配があった。よかった。今日は在宅中らしい。
 返事はなかったが、しばらくしてガチャリとノブが回った。
 そして、のんびりと開かれた扉の向こうから現れたその男に俺は思わず、「げっ」と声を出しかけた。
「……あぁ、昨日の」そのモノトーン調の服装に、やたらに高い背の男は、縁のない眼鏡の奥から俺を見下ろして言った。「DJの人?」
 モッポ氏だった。そして出会い頭に俺の羞恥心を思い切り槍でぶっ刺してきた。
「いや、違うよ。俺は割りと普通なサラリーマンだから」
「……そう、ですか」
「う、うん。そうなんだ……」
 なんとも言えない気まずい空気が二人の間に流れた。まずった。話かけるタイミングを逃してしまって、二人とも黙り込んでしまった。さて、どうしたもんかな……。
 嫌な汗を首筋に流していると、「あの」とモッポ氏から話かけてきた。「どういったご用件でこちらへ?」
「え? ああ、俺、昨日203号室に引っ越してきたもんで、管理人さんに挨拶をと思ってやってきたんだ」
「……なるほど。昨日の引越しということは……尾路山さん、ですよね。これからよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。手ぶらで申し訳ない」
 気にしないでください、と言って浮かべた微笑は中々に好感を持てるものだった。最初の印象が悪かっただけで、モッポ氏は悪い人ではなさそうだ。
 動揺と緊張もほぐれたところで、モッポ氏に尋ねることにする。
「あの、ここ管理人さんの部屋であってるよね」
「ええ、そうです」
「そうかそうか」となるとやはりここが、ミドリさんの部屋ということだ。じゃあ彼、モッポ氏はミドリさんの何なんだろうか。家族? 恋人? 夫? 愛人? 何にせよ、別に俺は一言二言会話できれば満足できるだろうから、モッポ氏とミドリさんの関係を気にする意味はない。
「管理人さんのミドリさん、いるかい?」
 尋ねると、モッポ氏はポカンとした表情になり「……ええ、いますけど」と曖昧な返事を返してきた。
「それじゃあ、呼んできてもらえないかい? 直接挨拶したいんだ」
「……えっと、おそらくあなたが言うところの『ミドリさん』はすでに目の前に立っていますよ」
「はっ?」目の前、というとモッポ氏が立っているだけなんだが……あぁ、モッポ氏の視点から見ればってことかな。
 俺はそう考え、後ろに振り返った。しかし、そこには誰も存在しなかった。
 今度は、モッポ氏の後ろを覗いてみた。入り口の奥にはもちろん部屋があり、入り口の玄関スペースと部屋の境目ぐらいの所にロンブーがちょこんと座ってこちらを、つまらなさそうに見つめていた。
「……あの」と申し訳なさげに、モッポ氏が俺の肩を突いた。「『ミドリさん』って、僕のことです」
「え」その一言に、思わず呆然とする。
「遅れましたが、僕はハーマン・グリーンといいます」
 何を急に名乗っているんだろうか、この男は、とそれどころじゃないと頭が拒否しかけたが、「ハーマン……“グリーン”?」と引っ掛かりを感じて、高速で思考が回転しはじめる。
 ハーマンってどんな漢字書くんだよ……ってアホか俺! 外国名だろうが! 見た目は日本人のそれなのに、外国人なのか。まぁそれは置いといて、問題は『グリーン』のほうだ。そう『グリーン』である。これが意味するところは何なのか。
 それは――
「……もしかして、モッポ氏が『ミドリさん』?」
「ええ、モッポ氏が何のことなのかはわかりませんが、ミドリとは僕のことです」
 いつの間にかそう呼ばれるようになっていました、とモッポ氏改めミドリさんは付け足した。
「へえ、ああ、そう、なんだ……あの」
「はい?」
「もう一人、ミドリさんがいたりしません?」
「……いえ、このハイツには『ミドリ』という名の方は他にいらっしゃいませんよ」
「ああ……そう、ですか。あの」
「……なんでしょうか」
「同居人の方は?」
「僕、ですか? ……僕は一人です。強いて言うならば、彼女が」と指差したのはロンブーだった。「彼女に明確な名前はつけていないんですが、『アイン』とか『シュタイン』と呼ばれているようです」
 ロンブー改めシュタインは、退屈そうに「くぁ」と欠伸を漏らしていた。
「ああ……そう、ですか。あの」
「…………はい」
「ミドリさんは…………」
「…………………………」
「……男性の方ですよね?」
「え、ええ……」
「そうですよねー。ははは、いやお気になさらず!」はははははは。
「……はあ」と、俺が乾いた笑いを口から駄々漏らしている俺の様子に、不思議そうな表情を浮かべていた。
 それじゃあこれからよろしく、とお互いもう一度挨拶を交わし、俺の挨拶回りは終了した。ミドリさんが部屋へ戻っていくのを確認して、俺も廊下を渡り、階段を一つ上り、自分の部屋へ帰還した。
 入り口のところで「はぁ……」と、がっくりと肩を下ろした俺は、しばらく窓枠によって切り取られた、まるで額縁に飾られたような鮮やかな茜色の空を眺めた。
 ぐぅぅぅ、と腹が鳴った。そういえば蕎麦を貰ったんだっけ、と思い出し、まだ開けていなかったダンボールから鍋と丼を取り出して蕎麦を茹でた。
 折りたたみ式の机を広げ、部屋の中央に置き、そこで蕎麦を啜った。
「おお、うめえな」
 具は何も入っていなかったが、蕎麦その物の食感、味がしっかりしていて食べられる。
 今日は何だか、蕎麦が旨い。今まで食べてきた蕎麦の中で、確実に一番の感動を与えられた。
 それは、腹が減っていたからか、それとも――
「……いや別にショックとかそういうのじゃないから」
 誰にとも言わず呟いた心境は、暖かな夕陽に溶けて消えてしまった。
 部屋にはずるずると蕎麦をすする音が響いている。
 その音に風情を感じることなく俺は、二食分の蕎麦を一気に平らげた。
「ごちそうさまでした」
 パンと鳴らして手を合わせた。
 この後は――そうだな、残りの片付けを済ませて、
 さっさと寝てしまおう。
 いろんなことを忘れるために。
 主に、俺の恥ずかしい勘違いを……。
 俺はそう決めると、「よし、やるか」手近にあった漫画や小説が入っているダンボールに手をかけた。