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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅰ

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 治療の甲斐あってか、卵管の通りは良くなり、排卵には問題が殆どなくなった。そこまでで治療を始めて二年が経過していた。子宮筋腫の方ももちろん薬での治療は続けていたけれど、目立った改善はなかった。
 三〇歳になっていたこともあり、いよいよ本格的な不妊治療が始まった。ここからはもちろん直輝の協力がなくてはならず、まずは排卵のタイミングに合わせて夫婦生活をするタイミング法を試みてから、人工授精に移った。しかし、一向に天使は舞い降りてこなかった。当然のように治療はどんどん高度化してゆく。
 人工授精を十一回試みて何の成果も得られないまま、体外受精に挑戦することになった。当たり前のことだが、人工授精と体外受精ではその用いられる技術も費用も格段に違いすぎる。体外受精を三度ほど行ってもやはり妊娠はできなかったある日、直輝がポツリと言った。
―なあ、もう良いだろう?
 最初、紗英子は夫の言葉の意味を図りかねた。
―何が良いの?
―子どものことさ。俺は別に子どもなんかいなくても良いんだよ。紗英子がいてくれれば、それで良いんだから。そりゃあ、人の親ってものにもなってはみたかったけど、ここまでしても無理だったんだ。やっぱり、そろそろ諦めた方が良いんじゃないかと思うんだ。お前だって、辛くて苦しい治療を続けるのは、しんどいだろう? 身体にだって、相当の負担がかかってるだろうし。
―なに、それ?
 紗英子は悔しさのあまり、眼に涙を滲ませて言い返した。
―私はそんなのいやよ。赤ちゃんが欲しいの、絶対に欲しいのよ。諦めたりなんかしない。
 大人しい直輝はそれきり、何も言わなかったけれど―、思えば、そのときから、直輝との関係が微妙に狂い始めたのだとの自覚は紗英子にもある。
 夫が態度では協力しながらも、けして心から望んで治療しているわけではないのだと知っていた。だが、紗英子はその事実には眼を瞑り、ひたすら治療に専念した。可愛い赤ちゃんを見れば、直輝もやはり治療を止めないで良かった、諦めないで良かったと思うに違いない。だから、頑張ろう、頑張るしかないと自分にひたすら言い聞かせるしかなかった。
 だが、天の神さまは容赦がなかった。長い不妊治療の間には、たくさんの強い薬が使われた。紗英子はそれらの薬の副作用で、著しく体調を崩すことになってしまったのだ。医師も気の毒そうに、一時治療を中断せざるを得ないと言った。それが三十二歳になる直前のこと。
 それでも紗英子は諦めず、体調を元に戻すための苦い漢方薬も飲み続け、次のチャンスを待った。一年後、やっと体調も戻り、いざ治療を再開しようとするときになって、また別の問題が発覚する。それは若いときから持っていた子宮筋腫の著しい悪化であった。これまでは薬で様子を見守ってきたが、もう手術しないといけないところまで来てしまった。
 紗英子は一度目の手術を受けて、子宮の一部を摘出した。妊娠を強く望んでいるため、もちろん、子宮そのものは残している。仮に妊娠したとしたら、流産の確率は高くなるし、出産も帝王切開で行うことになるけれど、それでも、妊娠できないよりははるかに良い。
 一縷の望みを賭けて、再び治療が始まった。更に二年が経っても、紗英子は妊娠できないままだった。そして、最後通牒が突きつけられた。子宮筋腫の再発。
 もう、これ以上の子宮温存はできないと言われた。万が一、温存したとしても、妊娠する可能性は限りなく低く、かえって病気の再々発を招く原因になるだけだとも。
 その医師の言葉は、つまり、もう全摘しか道はないと告げているのも同じだ。それを聞いた日、紗英子は一晩中、泣き明かした。もう、自分に子どもを持てる道は一切、閉ざされてしまった。可愛い赤ちゃんをこの腕に抱ける日は永遠にめぐって来ない。
 いっそこのまま高層ビルから飛び降りて死んでしまおうかとも考えたくらいだ。でも、死ぬだけの勇気すら、なかった。結局、悶々している中に手術の日がやってきて、紗英子は今日、子どもを持つという望みを完全に絶たれた。
 長い長い、年月だった。二十八歳で不妊外来の門をくぐってから、実に七年の歳月を重ねていた。自分なりにできることはすべてしたし、夫が途中からは治療に反対なのも知りながらも、眼を背けてひたすら子どもを得られるべく努力してきた。その結果が、これなのか。
 自分は一体、この七年もの間、何をしていたのだろう。空しい可能性と希望に縋り、けして実らない努力に無駄な年月と金を費やしただけなのか。だとしたら、自分があまりに惨めで憐れに思えた。
 紗英子はグッと歯を食いしばり、低い嗚咽が大きくならないようにした。泣いたって、誰も同情なんてしてくれやしない。この世の中に、子どものできない夫婦はごまんといる。高額な治療を受けて妊娠できる幸運な夫婦もいれば、自分たちのように空しい結果に終わる人たちもいる。
 だが、だからといって、子どものいない夫婦のすべてが不幸だというわけではない。子ども以外にも生き甲斐を他に見出して生きてゆく夫婦も現実にはたくさんいるのだから。例えば、夫婦共通の趣味を持つとか、考え方は色々あるだろう。
 しかし、紗英子にはどうしても、それを受け容れることはできそうにない。望んでもけして得られないものを望むほど、愚かで空しいことはない。それよりは今、身近にあるもの、幸せを見つめて生きてゆく方が何倍も賢明だし、建設的だ。判っていながらも、なお子どもを欲しいと思ってしまう自分はやはり、相当の馬鹿なのだろう。
 赤ちゃん、私の赤ちゃん。
 紗英子は泣きながら、どこにいるはずもない、けしてやってくることはない天使のことを思った。まだ一片の可能性があるときなら、辛抱もできた。でも、これから先、自分は何を支えに生きていけば良いのだろう。子どももいない夫と二人だけの気の遠くなるような日々を重ねて、年老いて、やがて死ぬ。
 先が判っている運命ほど退屈で怖ろしいものはない。紗英子は既に決まってしまった自分の未来に想いを馳せながら、いつまでも枕に顔を埋めて泣き続けた。

 数日後、紗英子は病院の待合室にいた。ここの病院は以前、通っていた大きな総合病院ではない。もう妊娠の可能性はないと告げられた時、できるなら小さな個人病院を紹介して欲しいと紗英子の方から頼んだのだ。
 結果としては、それで良かったのかどうか。確かに自宅マンションからも車で二、三十分ほどで通うのには便利は良い。しかし、ここは産科・婦人科の看板を掲げてはいても、実質的には産婦人科に通う妊婦ばかりだ。紗英子のようにもう子どもを望めない女には、いささか場違いな雰囲気は否めない。
 何しろ、紗英子の入っている病室の前が新生児室なのだ。大変人気がある病院のため、出産も順番待ちといった状態で、紗英子が入院できたのも、そこの院長がかかっていた総合病院の不妊外来医師の後輩だから―というコネがあったからこそだった。
 だから、子宮摘出で入院するのに、新生児室の真ん前の部屋を当てられたと文句を言える筋合いでもなかった。現に、入院前に主任と呼ばれる四十ほどの看護士が紗英子に打診してきたのだから。
―ちょっとお産の妊婦さんが一杯で、予備の部屋しか空きがないんだけど、構わないかしら。