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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅰ

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♠Prologue(序章) ♠
 
 その瞬間、私はすべてが終わったような気がした。何か女として―、いや、人間として、とても大切なものをどこか遠くへ置き去りにしてきたような気持ちになった。
 皮肉なものだ。このような事態になる前には、死にたくないと思っていた。生命さえあれば、生きていられるだけで良いと無欲に考えていたのに、生命が助かったと判った今は、どうだろう! もう二度と目覚めることなく、あのまま生命を失っていたら、こんな過酷な現実を直視することもなかったのにと天を恨まずにはいられなかった。

♠Round.Ⅰ(喪失)♠
 ゆっくりとまたたきを繰り返している間に、ぼんやりとした視界が徐々にクリアーになってゆく。紗英(さえ)子の瞳は、漸く周囲の光景をはっきりと映すことができるようになったらしい。しかし、直にその視界はまたもや曇り、すべてのものがぼやけて見えた。
 紗江子は滲んできた涙を堪え、泣いているのが判らないように顔を枕に押しつけた。
「気がついたのか?」
 ふいに耳許で声が聞こえ、男が自分を覗き込んでいるのが判った。見慣れた顔は、夫の直輝(なおき)だった。
「良かった、気がついたんだな」
 別に、そんなに大騒ぎするほどのこともないじゃないの。
 紗英子はどこか冷めた眼で夫を眺めていた。元々、生命を失う危険なんて殆どない手術だと医師からも事前に聞かされていたはずである。その程度の手術に怯え、〝死ぬかもしれない〟と泣き喚いたことなどきれいに忘れ果て、紗英子は皮肉な想いで考えた。
「気分はどうだ? 傷は痛むか?」
 紗英子が意識を取り戻したのがよほど嬉しいのか、直輝は顔を輝かせ、矢継ぎ早に訊いてくる。
 普段は感情をあまり露わにしない夫がここまで歓んでいる―、本当なら、そのことにこそ感謝すべきだったのかもしれないけれど、紗英子は不機嫌に顔を背けた。
「良いわけないでしょ」
 その科白には、紗英子としてはあらゆる想いを込めたはずだった。
 しかし、単純な夫には理解できなかったようだ。直輝は整った顔を瞬時に翳らせ、更に身を乗り出すようにして紗英子の顔を見ようとする。
「やっぱり、傷が痛むのか? もしかして、吐きそうだとか?」
 ああ、何てデリカシーの欠片もない男なの! たった今、女として最も大切なものを失った妻にかける言葉は、そんなものしかないの?
 何故だか、直輝と話していると、余計に苛々として気分がささくれ立っていく。
「看護士さんを呼んでこようか?」
 顔を背けた紗英子になおも直輝は優しい声で問うてくる。
 ああ、何て苛々する男。こんなときにかける適当な言葉すら思いつかないなんて。
 紗英子は内心、うんざりとしながら呟く。
「一人にしておいてくれない?」
「え、何だって? 声が聞き取れないんだ」
 もう、良い加減にして。こんなときに大声が出せるはずがないでしょう。
 傷が痛まないわけではない。気分が良いはずがない。何しろ子宮一つをすべて摘出するという大手術を経験した後なのだ。
 だが、そんな身体的な不調など、心の痛みに比べれば何でもなかった。傷の痛みより、今は心の痛みの方がよほどこたえている。そんなことに、何故、夫でありながら気づいてくれないのか?
 大きな声を出せば、まだ縫い合わせたばかりの傷に響く。そんなこともこの男には判らないのだろうか。
「一人になりたいの」
 今は誰にも話しかけられたくない。
 紗英子の眼から熱い涙の滴が溢れた。
「紗英―」
 直輝の分厚い手のひらが肩に乗せられる。
 思わず振り払いたい衝動を堪え、紗英子は低い声で繰り返した。
「お願い、今は話しかけないで。私の精神状態って、多分、普通じゃないと思うから。一人になって少し考えたいの」
 直輝から大きな溜息が洩れるのが判った。
「判った。少し外を歩いてくるよ。でも、もし具合が悪くなったら、すぐに看護士さんを呼ぶんだぞ?」
 直輝はそれでもまだ紗英子を気遣いながら、病室の外へと出て行った。
 優しい夫、妻を気遣う夫。直輝の姿はむしろ当然のことだろう。むしろ自分の荒れ狂う感情のままに、他人に八つ当たりする紗英子の方が非難されるべきだ。
 しかし、紗英子は自分を止められなかった。これで、また直輝に一つ負い目を感じることが一つ増えた。そう思うだけで、やりきれない想いになる。
 紗英子は糊の効いた清潔な枕に大粒の涙を零しながら、これまで自分が辿った長い歳月を記憶に甦らせていた。
 紗英子と直輝が結婚したのは忘れもしない二〇〇〇年の十二月、クリスマスも近いある日のことだった。その年はミレニアムと呼ばれ、その記念すべき年に出産したいと望む女性が多かったらしく、前年まで下降の一途を辿っていた出生率がその年に限って上昇したという。
 そんな年に、紗英子は結婚生活のスタートを切った。だが、歓びは長く続かなかった。
 結婚して三年が過ぎても、紗英子は妊娠しなかった。通常、二年以内に妊娠の兆候がなければ、不妊症とされる。紗英子は子どもはどうしても欲しかったから、病院に行くことに抵抗はなかった。
 が、夫の直輝は違った。二人ともにまだ二十代半ばであったことも関係したのだろう。直輝は頑なに病院へ行くことを拒んだ。
 夫婦で何度も押し問答を繰り返した挙げ句、やっと病院の不妊外来を受診した。その時、既に結婚して五年になろうとしていた。夫婦でひととおりの検査を受けた結果、直輝の方には全く異常が見られなかった。問題は紗英子の方にあったのだ。
 それを知った時、紗英子は泣いた。子どもを持てないかもしれない自分を憐れだと思う一方、直輝に申し訳ないと心から済まなく思ったのである。
 生理不順、卵管の閉塞による排卵障害、更に子宮筋腫と幾つもの障害や疾病があることが解り、まずはその治療から始まった。それもまた紗英子にはもどかしくてならなかった。
 紗英子の大学時代の友人にも、長らく不妊で悩んでいた友達はいた。その友人は結婚して三年目に受診したところ、検査でも特に原因はなく、二、三度の通院と薬の処方で容易く妊娠したと聞いていた。
 だから、自分たちの場合も大方はそんなものだろうくらいに楽観的に考えていた。しかし、現実はあまりに厳しいものだった。
 とはいえ、まずは体調を整え、すみやかに妊娠できる身体作りをしなければならないというのなら、やるしかなかった。紗英子はとにかく子どもが生みたかったのだ。いささかオーバーな言い方かもしれないけれど、喉から手が出るほど欲しいと思っていたと言っても過言ではなかった。紗英子自身は一人っ子で淋しい想いをして育ったから、自分は結婚したら、二人以上は生むのだと決めていたのだ。
 治療が始まった。二週間に一度の通院は、バスや電車を乗り継いで片道二時間を要する。それでも、紗英子は根気よく通院を続けた。そこの病院は県下でも有名な不妊治療専門医がいて、現実に妊娠を希望する不妊カップルの五組に一組が妊娠に成功しているという実績がある。そこ以外には考えられなかった。