小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

火焔の月~淀どの問わず語り・落城秘話~

INDEX|2ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

「市、どうやら、我らの他にも名月に誘われてここにやって来た風流人がおったようだぞ」
 父が笑いながら茶々を抱き上げ、頬ずりする。
「ととさま、お髭が痛い」
 わずかに伸びた髭が茶々のやわらかな頬に小さな傷をつけている。茶々が訴えると、父浅井長政は破顔した。
「おお、済まん。済まん」
 茶々は、父の向かいに座り、やはり笑っている母に問いかけた。
「かかさま、何ゆえ、先ほどはあのように高らかにお笑いになっていたのですか?」
 天下の覇者織田信長の妹にして、天下一の美女と謳われる母は茶々の自慢だった。その母が婉然と微笑む。
「昔のことを思い出していたのですよ」
「昔?」
 つぶらな瞳で見上げると、母はにっこりと笑い茶々の髪を撫でた。
「我らが初めて出逢うた日のことだ」
 代わりに父長政が応えてくれる。
「初めて出逢うた日? 祝言の日にございますか?」
 今度は母が茶々に話して聞かせてくれた。
「色々と支度があるゆえ、母が初めてこの近江に参ったのは祝言よりは少し前のことになる。その初めて小谷に参り、殿―そなたの父上さまにお逢いした折のことよ」
「教えて下さいませ。何がございましたの?」
 そこで父と母が顔を見合わせる。
「それはな」
 言いかけた父に向かい、母がいつになく白い頬を上気させて言った。
「お止め下さいませ。子どもに聞かせたい話ではございませぬ」
「されど、別に隠し立て致すほどのこともでもなかろう」
 父は事もなげに言い放ち、茶々に母の秘密を暴露した。
「母上はのう、いきなり輿から降りて迎えに出た儂を見て、こう申したのだ」
―腑抜けた将軍家を真似て、やれ管弦だ詩歌だのと公家紛いの猿まねを致して良い気になっておるような軟弱な男など笑止、我が嫁ぐ男は真のもののふだけにございまする。
「と、まあ、こう言い放った」
 当時、長政の父は六角氏と懇意にしており、まだ虫の息であった足利将軍家に心を寄せていた。息子の長政は父とは違う意見であったのだが、嫁いできたお市はそこまでの事情は知らなかった。
「かかさま」
 茶々は父の膝に抱かれて母に言った。
「ととさまは腑抜けた軟弱な男などではございませぬ」
 母は頬を染めたまま、かぶりを振る。
「判っておる。殿にお仕え参らせたこの六年を振り返れば、我が殿ほど真のもののふと申し上げるに相応しき方はおられぬと、よう心得ておる。されど、当時はまだ、母は何も知らぬ愚かな娘であった」
 つまり、母は父を誤解していたのだ。
 父は笑いながら言った。
「幾ら釈明しようとしても、儂が側に近寄っただけで、愛用の薙刀を持ち出して振り回してでも撃退しそうな剣幕でのう。可愛い顔を鬼のごとく変えて睨みつけるのよ。流石の儂もお市の薙刀で首を斬られてはたまらんと、迂闊に近づけなんだのだ、のう、市」
「よくも仰せになりますね。私一人が幾ら薙刀を振り回したとて、殿が本気になられれば、赤児の手をひねるほど容易くねじ伏せられたでしょうに」
 長政はまだ笑顔のまま、お市を見ながら続けた。
「何ともはや強情なおなごよと内心、呆れておった。見かけのたおやかさはほんの見せかけ、流石に信長どのの妹だけはあると思うての、これはお互い根比べだと腹を括った」
「根比べとは、何か実際に勝負をなさったのですか?」
 茶々のあどけない口調に、今度はお市が話を引き取った。
「果たし合いをしたのです」
「果たし合い!? ととさまとかかさまが獲物を手に闘われたというのですか?」
 幼い茶々には信じられない話であった。両親の顔を交互に見ていると、また父と母は顔を見合わせる。
「私は実家から嫁ぐ際にも持参した薙刀で、殿は素手で果たし合いをしましたよ」
 母は微笑んでいる。
 父もまた満面に笑みを湛えていた。
「そなたも承知のとおり、結果はこの母の惨憺たる負け。殿は丸腰でおわしながら、私の繰り出す突きをすべて身軽にお交わしになり、所詮は大人と子どもの遊びごときもの、到底、勝負と申すものではなかった」
 お市の晴れやかな声に長政の張りのある声が重なった。
「何の、そなたの母もなかなか見事な腕前であった。途中で、この気迫では真に首と胴体が真っ二つにされてしまうと焦ったこともあっのだぞ。流石は軟弱な男は良人とは認ぬと初対面で言い切るだけはあった」
「まあ、嫌でございますわ」
 少女のように頬を染める母は到底、三人の子がいるとは思えないほど若々しく美しかった。当時、五歳であった茶々が知るすべもなかったのだけれど、その〝夫婦の果たし合い〟が行われた後、ほどなく長政とお市が名実ともに夫婦となり、心身ともに結ばれたことは、浅井家家中では有名な逸話となっている。
 お市が織田家から嫁いできた当初、若夫婦の仲がすごぶる険悪なのは重臣たちの悩みの種でもあった。織田家との結びつきを強めるためにも、長政・お市夫妻の間一日も早く世継ぎを願っていたのに、当の若夫婦は互いに側に寄りつこうともしない。
 それが、夫婦の果たし合いの後、お市はほどなく身ごもり、最初の子である茶々が生まれた。
「凄い、ととさまもかかさまも、お二人共にお強かったのですね」
 眼を輝かせて両親の武勇談に聞き入る茶々は、男女の仲のことよりは大好きな両親が二人とも互角に戦えるほど強かった―という話の方が嬉しかった。
 もちろん、体格も良い長政と華奢なお市でそのようなことがあるはずもなく、長政が手加減した結果にはすぎなかったのだけれど。
 と、お市が小首を傾げ、長政を見つめた。
「虫の声がここからもよう聞こえます」
「さにあらん。庭の曼珠沙華も盛りだ」
「私たちが庭で果たし合いをした日も、あの花が美しう咲いておりました」
 茶々は何だか自分だけがのけ者にされたようで淋しくて、慌てて割って入った。
「かかさま、曼珠沙華というお花は、まるで燃えているように見えます。たくさんの花が固まって咲いておるのは焔が燃えておるようにございます」
 お市は、うっすらと微笑んだ。
「確かに茶々の申すとおりじゃな。茶々、あの花を彼岸花、死人花と申すのは知っておるかえ」
「彼岸の頃に花開くから、彼岸花と申すのだ」
 脇から長政が教えてくれた。
「死人花は申すのは、あの血の色を思わせる真っ赤な花のせいであろうのう」
 母が呟くのに、茶々はハッとして母の美しい面を見上げた。艶然と微笑む花のかんばせの向こう―、天守の小窓から垣間見えた月が一瞬、紅く血の色に染まっているように見えたのだ。
 慌てて眼をこすると、ふっくらとした満月はすぐに元の黄味餡のような色に戻ったが、その夜の一瞬の記憶は、そのまま一年後のあの夜へと続くことになる。
 その夜、茶々は父の膝の上で丸くなり、大好きな優しい両親が睦まじく語り合う声を子守歌に眠りに落ちていった。
 その一年後、茶々の生まれ育った小谷城は焼け落ちた。まさかの伯父信長に攻められ、城は焼け落ち、父は紅蓮の焔に包まれて死んだ。
 乳母に付き添われ、母に手を引かれて落城間際の城から逃れ出た茶々が最後に見たもの―、それは遠方に紅く燃えながら落ちてゆく小谷城とその真上で煌々と輝く満月であった。