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読み違え&萌え心を揺さぶるシリィズ

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読み違えドイツ詩妄想仕様・その6〜Erinnerung


** 本作は『ぼくが途方に暮れる理由』に掲載していました **

 幼いころであれば同性相手にも含羞なく云えた「好き」の2文字は、歳を経るごとに重みを増し、意味が深まり、扱いに理性を求められる言葉となる。
 青春に刻限があるように(※)、この2文字にも口にできる期限というのがあるような気がする(同性相手の場合に限るけれども)。
 拙作にも、少年が少年に対し「好きだよ」と言う短編があるが、それは必ずしも恋愛感情ゆえではない。むしろ、純粋な友情しか介在していない少年同士に「好き」と言わせるのが好きなのだ。そこに、私の萌えツボがある。

 さて、今回のドイツ詩。語り手《僕》の相手は女性であろう。《パラソル》《天使》《ブロンドの捲毛》等の単語からも想像に難くない。
 しかし、私はこの相手を同性、つまり少年に読み違えてしまったがために萌えまくる結果となった。
 最後から2連目「それから――」で終わる部分が、またクセモノだ。「それから」何があったというのだ。あんなことか? こんなことか? 接吻を二度も済ませたあとだけに、×××な展開かー!? 嗚呼…これぞ萌えの生殺し。だが、意外とシンプルに「ずっと好きだった」という告白かもしれんぞよ。うぅむ、肝心の部分を読者まかせにするとは、コイツやりよるな…と舌を巻く。
 というか、大詩人をコイツ呼ばわりする不届き者の存在に呆れ果てる。


※「青春に終わりはない」といった気位に、私はどうしても同調できない。
 「青春とは絶対的に少年期にしか存在しないものであり、
  それを過ぎてしまったら絶望的に追懐するしかないもの」というのが持論。
  
                  ***

◇あれが最後だった クレールヒェンよ
 お前と一緒にあるいたのは
 そうだ あれが最後だった
 僕たちが子供のように喜んだのは

 その日 ふたりは急ぎ足で
 日のぱあっとあたっている
 雨あがりのひろい道をあるいていた
 一本のパラソルに身をかくし
 まるで妖精の部屋にでも入っているように
 ふたりはそっと身をすりよせた
 しまいには腕と腕とを組みあって

 でも ふたりとも口はあんまりきかなかった
 心臓がどきどき鳴っていたのだからね
 ふたりは黙ってそれに気づいていたけれど
 てんでに心でおもっていたのだった
 顔がほてって赤いのは
 照りかえすパラソルのせいなのだと
 ああ あのときのお前はほんとに天使だったね
 お前はじっと地面ばかり見つめていて
 ブロンドの捲毛(まきげ)が
 白い頸すじにかかっていた
「いま きっと虹が」と僕はそのとき言ったのだった
「背後(うしろ)の空にかかっているよ
 あの窓で鶉(うずら)がまた一声
 たのしく鳴いているような気がする」
 そしてみちみち僕は思い出していたのだった
 僕たちの子供の頃の遊びを
 お前の故郷の村と
 そのかずかずのたのしみを

 僕はきいたのだった 「おぼえているね
 あのお隣の桶屋の中庭を
 あすこにころがしてあった大きな桶のなかに
 僕たちは日曜の午(ひる)さがり
 いつもどっかりと坐りこんで
 お喋りをしたり お伽噺を読んだり
 ちょうど向こうの教会では
 日曜学校があったね――なんだか
 あの静かなあたりに鳴っていたオルガンの音(ね)が
 いまでも聞えてくるような気がするよ
 ねぇ 僕たちはもう一度
 またあの頃のように読みたいね
 ――桶のなかでなくてもいいから――
 あの大好きだった『ロビンスン』を

 するとお前はにっこりとして 最後の街角を
 僕と一緒に曲がっていった
 そしてお前の胸に挿してあった
 薔薇の花をおくれと言ったら
 お前ははにかんだ眼つきをして
 あるきながらすばやく渡してくれたね
 僕はその花をふるえる手で唇におしあてて
 はげしく二度も接吻をした
 でも それを嘲るものは誰もなかった
 見ているひともいなかったし
 お前でさえ見てはいなかったのだから

 お前を送っていった あの
 見知らぬ家についたとき
 僕たちはそこに立って ほら 僕が
 お前の手を握って それから――

 あれが最後だった クレールヒェンよ
 お前と一緒にあるいたのは
 そうだ あれが最後だった
 僕たちが子供のように喜んだのは

                   (富士川英郎氏訳)