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南 総太郎
南 総太郎
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幽霊機関車

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『幽霊機関車』                     南 総太郎 作
                                 

この物語は、あの悲惨な大東亜戦争(太平洋戦争とも呼ばれます)が終わって間もない昭和二十一、二年に起きた不思議な事件について、私の古い記憶をひもといて記したものです。
当時私は小学校四、五年生でしたので、記憶の一部に事実と異なる処があるかも知れませんが、大筋ではそれ程大きな思い違いはないと信じます。
昭和十九年四月、学童の集団疎開の噂が流れ始めると、私は早々と母の実家のある南関東の或る県の国民学校(当時小学校はこう呼ばれました)二年生に転入させられました。
つまり縁故疎開をしたわけですが、終戦後も新制中学二年生の半ばまでは、母と私と齢の離れた弟達二人が田舎暮らしを続け、父だけが横浜の親戚に居候をしながら東京での公務員生活を送っていました。

さて、その田舎ですが、東京から百キロ程離れた田園地帯で、静かなことと言ったら、まるで空気の粒子同士の擦れ合う音が聞こえて来そうな程で、時々鳴く地虫の声がひときわ大きく耳に響いたものです。

庭の渋柿の実が真っ赤になった頃の或る夜、私は読書好きの友人から自宅の天井裏で見つけたと言う虫食いだらけの一冊の本を借り、余りの面白さについ深夜まで読み耽っていました。
本の題名が記憶にありませんので、或いは表紙が無かったのかも知れませんが、内容は「真田十勇士」の活躍でした。
余程古い本とみえて、文体は明治時代の新聞記事そのものの調子で、まるで講談を聴いている感じでしたが、猿飛佐助や霧隠才蔵が火遁や水遁等の忍術を使うと、
 「奇妙、奇妙」
と叫んで敵方の兵達がキリキリ舞をする様は痛快至極で私の心をとらえて離しませんでした。
                                                 当時の田舎は電燈の数も少なく、いつも菜種油に灯芯を浸した卓上ランプの明かりを頼り
の読書でしたが、翌朝油煙で鼻の穴が真っ黒になっているのを、若かった叔父や二人の叔母
達に見つけられては揶揄されたものです。

その文庫版ほどの小振りの本を夢中で拾い読みしている私の耳にポーッという蒸気機関車(今で言うSLです)の汽笛が聞こえて来ました。

私は本から顔を上げました。
数キロほど離れた某本線の夜汽車の汽笛は、いつも淋しげに長く尾を引くものと知っていましたので、
 (これは随分短い汽笛だな。こんな夜更けに走る列車があっただろうか?それとも臨時列車かな?)
などと思いました。
しばらく聞き耳を立ててみましたが、汽笛はそれきり聞こえて来ませんでした。
それをしおに、私は読書を止め藁屑を分厚く詰め込んだ“しび布団”の上に敷かれた夜具の中に潜り込みましだ。
 ガサゴソと音はしますが、祖母の手になる特製の藁マットレスは寒い冬には打ってつけの防寒手段で寝心地も満点です。
隣の布団では昼間の遊びに疲れた弟達が可愛い寝息を立てていました。

 数日後、私は妙な話を耳にしました。
 放課後の教室で級友の一人が話しているのを、偶然聞きつけたものです。
 「父ちゃんが言ってだけっどよ、軽便跡の新道で、すげえ衝突事故があったようでトラックがぶっ壊れて、運転手の人も死んだってよ。だけっど、相手の車の欠けらもねえ(無)んで警察も変だなって言ってだどよ」
 
軽便とは戦前Y町からN町まで敷かれていたN軽便鉄道のことで、戦争も末期になってから突然強権発動とかで撤去され、南洋の何処とかへ軍用鉄道の線路として運ばれたと聞きました。
戦後、その跡地が自動車道路として利用されるようになったのです。
軽便の名は大正時代に敷設された当時、僅か六十センチ幅程度の狭軌でスピードものろく、走行中でも一旦降りて小便をして又乗れたという逸話とも重なり、年配者はそう呼んでいます。
 
本来鉄道線路だったため、急カーブなどもなく道路はほとんど直線に近く、死角による交通事故はまず起きにくい筈です。その上,事故が起きる程車両の通行はまだ多くありませんでした。

当時の田舎では自動車そのものが大変珍しく、時々集落の中の酒造屋を訪れる2トントラックでも子供の目には最大の車で、走っているのを見付けようものなら集落中の子供たちが追いかけ、車の後ろにぶら下がり、運転手が危険だからと気を使って徐行すれば、さして広くもない荷台に我先にとよじ登り、日頃見慣れている筈の周囲の景色を改めて珍しそうに眺めたものです。

兎も角、2トントラックが無茶苦茶に壊れたとなると、当然相手の車も壊れて、近辺に破片だけでも転がっていなければならないのに、
(一体何が衝突したのだろうか?)
 警察ならずとも大いに気になる処で、一旦好奇心が頭をもたげると、矢も楯もたまらず、私は帰宅の途中で其の級友の家に寄り道することにしました。                                                        

「父ちゃんに聴いてや」
と言うので、偶々在宅だった彼の父に直接尋ねました。
「ああ、あの事故か。おっらあ(俺)も見だよ。ありゃ変だな。相手の車の欠げらがどこにも見当たらねえんだ。K崎の切り通しにちけ(近)え所だ、すぐわがっ(判)ぺえ。2トン車が転がっていっがらよ。死んだ運転手はY町の酒屋の倅とかで、ここの酒造屋からの帰りだったらしいよ」

 私は家に飛んで帰ると、祖母がおやつ代わりに蒸かしておいてくれたサツマイモを一本つかみ、K崎に向かって駆け出しました。
昼でも薄暗い集落の外れの峠道を息を切らして上り切ると、突然広々とした景色が目に入って来ます。
県内でも有数の穀倉地帯です。
だらだらした坂道を駆け下りると、山沿いの県道に出ます。
 蒸かし芋の尻尾を捨てながら、ふと足元を見ると、未舗装の県道の土埃で藁草履ばかりか好きな黒のハイソックスまで真っ白です。
私は東京からの転校後も、半ズボンにハイソックスをはき続けていました。
当時田舎の子供たちは、冬を除いてはほとんど裸足で過ごしていました。靴は勿論、下駄さえも正月か何かの縁日位にしか履きませんでした。私も時には裸足になりましたが、あの気持ち良さは今でも忘れられません。ただ、誤って牛糞を踏んだ時は、にゅるっとした感触が何とも言えず気持ち悪かったものです。また、とがった物などを踏んで怪我をする危険が、藁草履以上に高く、子供たちはそれを「ふんぬき」と言って注意し合いました。踏み抜きが訛ったものでしょう。しかし、私の場合は叔母の一人が藁草履造りを内職にしていましたので常に新しい草履を履き、裸足で歩くことは稀でした。
 
白い県道は更に続き、先の方は稲株だけ残した田んぼの真ん中に消えています。
 山裾の終わる所で私は右折して田舎道へと入りました。
 K崎の切通しはもう近いです。
 ふと道路際の小さな石碑に目をやりました。
作品名:幽霊機関車 作家名:南 総太郎