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NIGHT PHANTASM

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09.エンド・オブ・サイレンス(2/4)



「……?」
現実に意識を戻して一番に感じたのは、手の甲に触れた熱い雫だった。
はっきりしていく視界に、垂れていく赤いものが映る。むせかえるほどの血の匂いが、部屋に満ちていた。まるで、あの夜の――あの夜?
「……アンナ」
「姉さん、何を……」
思わず、アンナは一部の思考を止めた上で驚いた。自分が寝かされているベッドのすぐ横で、アンナの手を握ったままのルイーゼの頬には、痛々しいほどに深い傷が走っている。
迷い一つなく切られた、一本の線。それが、自分の傷を限りなく違和感がないように真似したものだと気付くのに、時間を要した。
空いた手で、アンナは自らの頬をなでた。縫合処置はされていない。もう終わったのかもしれないが、それならば自分は何日眠っていたというのだろう。
考える合間にも、ルイーゼの傷からぼとり、ぼとりと大粒の血液が涙のように落ちていく。
「痛かったろう。苦しかったろう、アンナ。今ならお前の全てがわかるよ、なあ、アンナ……」
「ねえ、さん……」
「体を起こしても大丈夫だろう、もう数週間は経ってる。……薬のせいもあったとはいえ、はっきりと意識を取り戻すのにこれだけかかるなんて……」
自分の傷など気にもとめず、心底いとおしそうにルイーゼは片割れの頬、腕、肩から胸元まで、やさしくなでてはそれを繰り返す。
くすぐったいほどに優しいその感触が、わき腹で止まった。
「痛いかい?」
「いえ、別に」
「そうか。ちょっと見せてごらん、ああ。私の傷は気にしなくていいから。すぐに処置するとお前のと見分けのつく痕になる」
そう言うと、ルイーゼはアンナの着ている簡素なシャツをまくりあげた。元から、胸がないせいもありアンナはシャツの内に何も着用しない。
見知らぬ他人ならまだしも、誰よりも親密な姉に裸体を見られるのは、慣れていても恥ずかしさが残る。だが、それが伝わらないようにアンナはつとめた。
無駄の一つなく鍛え上げられた体を、ルイーゼは黙ってじっと見つめる。触れる白い手は、何かを確認しているような意味のある動きだった。
「骨は折れてないな。折れていたとしても、問題なく直ってる」
続いて、触れたのは先ほどシャツの上からもなでたわき腹だった。
「……」
「姉さん?」
「アンナ。エルザにここを刺されたこと、覚えてるかな?」
「……ええ」
少しの間をあけて、アンナは忌々しげに頷いた。親近感を感じたのは事実だが、それ以上に、自身のプライドを深く傷つけられた。
今ここにいるのなら、八つ裂きにして殺してやりたかった。そうでなくても、死ぬよりも辛い責め苦を与えて全てをズタズタにしてやりたかった。
あの夜激痛に身悶えたわき腹の傷は、どこにあるのか刺された本人でも気が付かないほど目立たなかった。まるで、あの夜が夢だったかのように。
だが、腎臓付近はそうでも顔の傷は確かにその可能性を否定している。上半身を起こしたままの姿勢で、アンナはルイーゼの顔を見た。
「傷が残ってたら、自分も同じ場所を刺すつもりだったんでしょう?」
呆れを帯びる声で、咎める。
「だって、そうでもしないと……二人は別々になっちゃうだろ」
そう言うと、説教は勘弁だとばかりにルイーゼは手を振った。慣れた手つきで、自らの頬を走る傷の手当てをしはじめる。
「手伝いましょうか? もう、私は大丈夫だから」
「いや、寝てていいよ。ちょっとわがままが許されるなら、アンナ。お前に与えられる薬の半分を、私におくれ」
「薬……」
薬という単語を確かに聞き取り、アンナははっとした。そうだ、寝ぼけていたのかすっかり忘れていた。姉に、伝えたいことがあったことを。
ルイーゼが、背を向けて淡々と傷の手当てを進める中、アンナは眠りつづけている間に見た夢のことを話した。
うなずくという最小限のリアクションも返さなかったが、姉が自分の話を一つも逃さず聞いているという事実は気配で察することができた。
きっと、姉は姉なりに思うことがあるのだろう。
だが、それで道を違えても、最後は同じ答えにいきつく。二人は一人なのだから。もはや双生児という言葉とはほど遠く、二つの体に一つの心が入っているのと同様だ。
一人のヒトとして生まれるはずが、何をどう間違えたのか二つの体をもって生まれてきた。ただ、それだけのこと。
先ほどよりも重くなった部屋の雰囲気をふりきって、アンナは意思を述べた。
「亡霊になってもいい。マスターのことしか見えなくなっても、本望よ。……だけれど、そうなる前に見てみたいの。確かめてみたい、全てを」
「何故そう思う? 何故、そういう考えが浮かんだ? こんな閉鎖された庭にいてもなお、何故お前をそういう考えにかきたてる? いったい、何を見た?」
そう言って、振り向いたルイーゼの表情は傷のせいもあってか、ぞっとするほど威圧感を感じるものだった。
それに連なるように襲いくる、ファンタズムという亡霊が与える恐怖。アンナの手元が、握った掌が、わずかに震える。
「エルザはもう、戻れない場所にいた。それが、わかった……」
「……」
「あの夜、あの子は言ったの」

『もう、落ちる場所なんてないと思ってた。けれど……見えたの、もっと、暗く深い……』

「きっと、すぐに私達も同じ道に落ちるわ。きっと、底につけば何も苦しまなくなるでしょう。生前の記憶に脅えることもなくなるでしょう」
「アンナ……」
「裏切るわけじゃない。けれど、うまく言えないけれど……見つけたいの。生前の私達の事を、覚えていてくれる。誰かの記憶の中で生き続けている私達がいる」
「それは、」
「え?」
「それは、完全に私達が亡霊になってしまう前に、生前の面影を全て潰すということだ。邪魔をする要素を、全て消す。人間だった私達を記憶に残している存在を一人残らず、殺すということになる」
「……」
鋭利な言葉の凶器が、アンナの胸をひきさいた。それによってあらわになった胸の内は、ルイーゼの言葉に同意していた。まるで、その言葉をずっと待っていたかのように。
完全なファンタズムになるために、完璧な死に方をするために、過去とそれに連なる全てをこの世から消す。
アンナは思わず、ぞっとした。
だが、それはすぐに狂犬を呼ぶ声に変わる。そうだ、そうしてしまえば眠るたびに見る夢に苦しむこともなくなる。過去は闇に塗りつぶされて見えなくなる。
「……そう。私は、それを望んでいた。ずっと」
強く頷いたアンナの目に、過去を求める生気は消えていた。いまはただ、夢を見ることに甘んじらなければならない。
鍵さえ手に入れば、扉は障害物の一つにもならない。今はただ、一日でも早く手がかりという鍵を得られるようにと――時を待つだけだ。


作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴