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ワールドイズマインのころ

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先生って、呼ばないでほしいな。
初めて先生と膝をあわせた昨春の、恐らくは火曜日の十七時過ぎ、彼はどうにも形容しがたいあの笑顔でそう言った。
しずかな口ぶりだった。

「えええ……、先生は先生じゃん」
「だってむずがゆいんだもん」
「じゃあ慣れるほどに呼んでやる」
「えー!」

いまだにこんなふうな笑顔だと充分にはことばに成しえないんだよとごちれば、じゃあうつくしく形容できるくらいになるまで教授したげるねとまた笑われる。
先生は間違えない。
こたえはひとつじゃないんだよと言いながら、いつだって解答集を気にするのだ。

真四角のローテーブルのこちら、の向こうに初めおさまった彼は、逆さで見づらいなとぽつりつぶやいたのち、こちらと繋がった左の辺に越してきた。
きぬ擦れの音とともにそわそわと空気が動いて、清潔なにおいがした。
信じられないくらい鋭利にそれらを感覚したのが不思議でふいに顔をあげた俺の、まだ比較的短かった前髪の奥をのぞき込むようにして、先生は照れたようにくちびるをゆるませた。

「先生。かてきょ初めてなの」
「ん、うん。ばれる?」
「なんとなく」
「ふはは、聖文は経験豊富なんだね。あ、キヨフミって呼んでいい? ていうか、」

そうして冒頭のせりふは述べられる。

先生は、間違えない。
間違いたくてしょうがないくせに。
ともすれば大またで一線を踏み越えそうな自分に、先生はいつだって恐怖している。

「で、『僕』の回想のなかで乾物屋にいた女のひとが今度は」
「ちょ、っと待って。この段落はデートのエピソードの前なの」
「え。いやいや違うよ冒頭の……、聖文ってさ、どうも時制に弱いよね」
「……んー、」
「よし、じゃあ今日は読解だけしなおして終わろう。コピー貸して、」
「はい」

使い込まれてよれた本文のコピーに、赤と青のペンでまた何事か書き足してゆく筆跡を追いながら、前髪を払った。
澱みなくつらなってゆく筆記の音と目覚まし時計のハリの音とが相俟って聞こえていて、それはまるきり五時間目の教室に浸み入ってくる雨の音だ。
そういえば、あの日は本物の雨が降っていた。
傘を発駅のベンチに忘れてきたのだと言い置いてうす暗がりの玄関先にすらりと立った先生は、パーカのフードを被ったまま、こんばんは、はじめましてと照れくさそうにお辞儀をした。
だからきっとあのとき俺を揺さぶったのは雨にぬれた彼の衣服と、うちのタオルの洗濯用洗剤のにおいで、そして俺は今とても眠い。

「聖文」
「ん、」
「眠い?」
「……え、なんで」
「ふふ。まぶたがいつもより厚い」

ふいに前髪を払われて、反射的に肩がゆれるのをそっと笑われる。
ひとさし指の二枚爪に気をとられているうちに、ぬるい親指が左のまぶたを摩った。
そのまま眼球のかたちをしらべるように圧してくるのに少しだけ滅入って、文句のひとつでもと口をひらいた矢先、今度はそのくちびるを撫ぜられて、俺の反抗心はあわれ霧散してしまう。

「……せんせい、」
「ん」
「もっと」
「それはできないな」
「なんでですか」
「もう七時だからだよキヨフミくん」
「シンデレラみたい」
「すごいこと言うね」
「先生」
「何、」
「間違えてよ」
「……先生って、呼ぶうちは間違えてやらない」

弱々しくうそぶきながら、それでも素直に肩を押される先生は、まるで文学作品の助からない主人公みたいだなあと、俺は初めて彼を何かしらになぞらえるのだ。