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ワールドイズマインのころ

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目覚まし時計の電池が切れていて、
玄関先で黒猫に横切られて、
ほどけた靴ひもでこけて、
遅刻の言い訳を見破られて、
小テの範囲を取り違えていて、
パンが直前で売り切れて、
予報はずれの雨が降って、
友人に置き傘をパクられた。

「……どんだけだよ、」

そして今、走る気力も失せて小寒い春の雨を肩にしませながら帰宅した俺は、沓ぬぎの横にきちんと揃えられた黒いコンバースに不吉な予感をふつふつと募らせている。
俺が一日思い違ってたのでなければ今日は木曜日であるはずだし、コンバースの本体が一日思い違ってるのでなければ彼はこんなところにいるはずのない人物なのである。

「あ、おかえり」
「……ただいま」

母親よりも先に俺の帰宅に気付いた彼は、いつもよりきちんと準備された食卓の席につかされて、おそらくはおそろしげな顔をしているであろう俺を見上げた。
俺よりでかい図体をやけにちんまりと椅子の上に収めて、困ったように少し笑う。
刃物を持ってあらおかえりー、と一瞬だけ見返る母親に事のいきさつをたずねる間もなく、彼女はお料理片手に述べたてた。

先生ねえお仕事きまったんだって、去年のうちからおよばれしてたんだって凄いよねしかも今すぐ来てくれっていうもんだから今週中に荷造りしなきゃいけないんだってお部屋さがすの大変だったでしょう。東京だもんね。

おしごと。
こんしゅうちゅう。
とうきょう。
ひと息に聞かされて、俺はそれらをうまく解釈できないまま、膝を揃えて所在なさげに座った彼を無言で見つめた。

「……聖文。びちょびちょだよ」
「……うん、」
「風邪ひくよ」
「先生、俺。質問があります」
「え、」

わからないんです俺はとにかくわからない、だから俺の部屋に来て。
よそゆきの声を出す先生にたまらなくなって、ほとんど勢いだけでその硬い手首をひっ掴んだ。
ものすごく驚いてびくりとはねた背中を追いかけてくる、ごはんもうできるよーという母親の声を気にして脚をもたつかせる先生の困惑にも、俺は全く留意できないまま階段を駆けのぼる。
先生はそのあいだずっと小声であわあわ言っていたけれど、ばたんと横着に閉められた自室のドアの内側に縫いとめられて、今度は言葉を失ったように固まってしまった。
口が半分あいたままだ。

「……き、きよふみ、」
「先生」
「はい」
「わかってるんですよ、」
「え、え?」
「先生が俺よりおとなで、というか俺が先生よりずっとこどもってこととか俺は先生を」

あまりにもこどもじみてる。
のもわかっているけれど、止まらなかった。

「しぬほど好きだけど、先生を止められるわけじゃないこととか、わかってるけど、わかってるけど、」

本当に言いたいことひとつのために百の遠回りをするのが恋だよね。
先生はそう言って笑ったことがあるけれど、そして俺はおおいに得心したけれど、俺のひらいてきた迂回路はたぶん指の数にも満たなくて、だから言いたいことひとつが、

「わかんないです……、」

混乱してだんだん涙声になってゆく俺を見つめていた先生もだんだん眉が下がってゆく、俺はそれを見たくなくて、先生の強張った肩に額をのせた。
つらまえた両方の手首が何かしたがって力を込めるのがわかったけれど、もしこの手を離していっさんに逃げられたりしたら、俺はもう立ち直れる気がしない。
弱く首を振ると、先生はそこにキスをくれて、くちびるをつけたまま窮屈そうに俺の名前を呼んだ。

「聖文。百の遠回りの話覚えてる?」
「………、」

思わず顔をあげる。
眼前に迫った先生の静かな顔だちは、これまでのいつの時よりもしんとしていて、俺は息をのんで身構えた。

「ごめんね、俺。先に焦ってもらえると自分は逆に落ち着いちゃうたちで、だから今すごく冷静なんだけど、俺、聖文のことを心底好きみたい。ていうか今日の本題はそれなんだけど聖文は、聖文はさあ、先生って呼ぶたんびにいっこ遠回りしたんだよ。二年も。だから俺の遠回りは二年も先生でいたことで、だから」

百の遠回りはもう完遂だよね。
ほとんど抑揚をつけずにひと思いに言い切って小さく息をついた先生は、無反応の俺に焦れたのか、目を合わせないままごすりと頭突きしてきた。

「なんか言えや」
「……あの、」
「うん」
「俺は、失恋しませんか」
「なんだそれ」
「あの、俺、今日すっげえ厄日で」

今日のあいだに自分が遭遇した厄災の数々を指折り言いつらねると、先生はしばらく神妙な顔で我慢していたけれどとうとう吹き出して、半分は自分のせいじゃねえかとけらけら笑った。

「もう立ち直れないとこだったんすから、だって先生が」
「うん」
「あろうことか先生にとどめさされるのかと思って」
「うん、」

僅差で見下ろされているのが少し悲しいというか悔しいけれどとにかく俺は目の前のこのひとを抱きしめなければいけないのだから、まだ彼を捕えていた手をようやく離して、そして思いきり抱きしめられてしまった。

「聖文。泣くなよ」
「……まだ泣いてません」
「だって俺、いなくなっちゃうよ」
「わかってるよ。だから俺、都内……は無理かもしんないけど、ぜったい近郊に進学するから、」

だからそれまで誰にも触らせないで。
初めて会った時と同じパーカの布地をかいくぐって腰を抱くと、先生は半分だけ伏せた色っぽい目をして、わかってるよと言った。

「でも、もっかい先生って言ったら今すぐ股間を蹴って逃げるよ」

こどものような顔で、暫定先生は笑った。