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ギャロップ ――短編集――

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【仏の住処】



 人生初の経験をした。嬉し恥ずかし甘酸っぱい初体験とは、程遠いものだ。
 昨晩、酒をしこたま飲んだ。足元が危ういほど泥酔する事はすでに経験済みで、ちなみにその後に記憶をなくすのも済んでいる。
 その後が問題だ。
 
 目覚めたら、狭くて小汚い道の上だった。吐き気こそないにしろ、このまま脳みそが飛び出してきそうなひどい頭痛に、一気に眉間にしわが寄った。
「おっ、にいちゃん。起きたか? まあまあ、一口どうや?」
 声のした方を見れば、お世辞にもキレイとは言えない服に身を包んだおっちゃんが、紙パックの飲み物を差し出していた。『りんごジュース』と書かれていたが、どこまで信用できるかわかったものではない。のどから手が出そうなほど欲しかった。のどがカラカラに乾いている。本能は水分を取れと、大声で喚き散らしていた。
「いらないです」
 わずかに残っていた理性を総動員して絞り出した声は、情けないほど擦れていた。

「にいちゃん、路地裏で夜を明かすには適さない服装だよな。ここがどこかわかるか?」
「――はい。大丈夫です」
「あれ、にいちゃんのだろう?」
 おっちゃんがあごで示した方に、壁にそってきちんと揃えられた靴があった。自分の足元を見れば、灰色にくすんだ靴下が、だらしなくくっ付いていた。
「ほい。これ、やるから。好きにしな」
 おっちゃんは紙パックを置いて立ち上がり、背を向けて歩きだした。悲鳴をあげる身体を強引に動かして、上半身を起こす。そのまま下半身を引きずるようにして、靴に手を伸ばした。

「生きてくだけならなんとでもなるぞ。いつも前を向いてたんなら、たまには余所見もしてみるもんだ」
 頭上の大きな太陽に照らされながら、おっちゃんは振り向いて言った。逆光になっていて、しかも二日酔いの目にはその黄色い光が沁(し)みて、おっちゃんの顔ははっきり見えなかった。
 後光が差している。なんの根拠もなかったが、そう思った。薄汚いおっちゃんの足元だけはくっきりと見えて、なぜだか涙が溢れてきた。
「ジュースのお礼です。好きにしてください」
 拾い上げたばかりの自分の靴を差し出した。
 紙パックにストローを差して、息もつかずに飲み干した。あまりのうまさに、涙は止まりそうにない。

 何かを勘違いしている風の笑顔のおっちゃんに、単なる飲み過ぎですとは言えず、「ありがとう」と一言だけ伝えた。



◆お題:『昼の路地裏』で、登場人物が『好きにする』、『靴』