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まつやちかこ
まつやちかこ
novelistID. 11072
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思い出と靴を、過去へ

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『思い出と靴を、過去へ』


 残暑が厳しい。というよりもまだ夏真っ最中なんじゃないか。
 そう思ってしまうぐらい、今年の暑さは異常だ。
 毎日の通勤、そして仕事も実にきつかった。職場は駅から5分かからないし、外回りの営業という仕事自体にはもう慣れている。短い時間でも、慣れた仕事でも、太陽の下を歩くのがとにかくきつかったのだ。
 「結花(ゆうか)、今日は早く上がれそう?」
 営業先の酒屋の一角で、麦茶が入ったグラスを差し出しながら、拓也は小声で聞いてくる。
 「んー、昨日ほど遅くならないとは思うけど。なんで?」
 「母さんが晩飯すき焼きにするって言ってんだ。肉が安いから山ほど買ってくるっつってるし、最近来てないだろ。食べに来いよ」
 拓也のお母さんは料理上手だ。すき焼きも何度かごちそうになっているから、とても美味しいのは知っている。でももうすぐ請求日だから今日もちょっと処理しといた方がいいかなと迷った時、そこを狙ったようなタイミングで拓也が言い足した。
 「あ、今日は『——』の試供分届いたから飲めるぞ。結花好きだろ」
 普通は高くて手が出ない銘柄に気持ちが7割、いや8割5分は傾いた。ワインメーカーに勤めながら実は日本酒大好きな私である。
 「だからさ、あっいらっしゃいませ、まあ考えといて」
 5時頃までに連絡くれればなんとかなるから、と言い置いて拓也は接客に走っていく。彼は3代続いたこの酒屋の跡取り。2年前、営業の担当替えで挨拶に来た時に知り合い、その半年後に個人的な交際を申し込まれて、今に至る。
 結婚についてもすでに、具体的な話はしばらく前から出ている。実際に進んでいないのは、私が「もう少し仕事を続けたい」と言っているからだった。
 「あ、待った。忘れるとこだった」
 グラスを返して店の外に出かかったところで、何か思い出したらしい拓也に呼び止められる。
 「なに? ちょっと急ぐんだけど」
 「それ、まだ履く気?」
 と指さしたのは、私の靴。ローヒールの、爪先が広いタイプの黒のパンプス。飾りベルトがこないだ取れかかったから同じ色の糸で縫いつけたものの、全体的にも色がかなり剥げかかっている。ちょっとみっともなくなりつつあるのは、私も認めるけど。
 「……うん、靴自体はまだ大丈夫だし、これ1足しか手持ちないし。私なかなか合う靴がないから」
 「知ってる。だから休み合わせて探しに行こうって、何度も言ったろ。この前来た時『結花ちゃんに靴ぐらい買ってやれないの』って母さんにも親父にも言われたしさ」
 困ったように言われた言葉に、さすがに赤くなった。ご両親にまで気にされていたなんて思わなかったから、知らされて急に恥ずかしくなってくる。
 「あー、ごめん。拓也のせいじゃないのに」
 「別にそれはいいけど。でもほんと、そろそろ買い替えないとマズいだろ。半年以上履いてんだからいつ駄目になってもおかしくないって、こないだも」
 「わかった」
 止めないといつまでも続きそうなので、普段はあまりしないけど、言葉を途中でさえぎった。
 「今月分が落ち着いたら、有休取るようにするから。あと半月我慢して」
 絶対だぞ、と念を押されながら、私は店を後にする。充分離れたところで、ふうと息をついた。
 買い替えた方がいい、というか買い替えるべきなのは、よくわかっている。
 結婚だって、両親にも言われるけど、なるべく早く決めるに越したことはないと自分でも思っている。「仕事を続けたい」なんていうのは、必ずしも嘘ではないけれど、結局は踏ん切りがつかない言い訳だ。
 酒屋の若奥さんになりたくないわけじゃない。嫌だったらそもそも最初から付き合わない。ちょっと頑固なところもあるけど、拓也は温和で優しい人だ。休日の合わない私たちを気遣い、今日のように食事に誘ってくれることの多いご両親とも、気心は知れている。
 踏ん切りがつかないのは、あくまでも私の気持ちの問題。
 この靴をいまだ履き続けてしまう私では、胸を張って家族に加われない気がするから。

 大学時代から卒業後2年目までの数年間、付き合っていた人がいる。大学の同期で同じ学部、語学のクラスも同じだった。ただし学科は違ったから語学以外では顔を合わせず、ゆえにしばらくの間、彼のことをよくは知らなかった。指名された時以外に発言しているのを聞いた覚えがなかったから、印象も薄かったのだ。
 変化は、2年になってしばらく経った頃。秋に開催される大学祭の実行委員会に、友達に『人手不足だから、お願い』と無理やり引っぱり込まれたのである。
 ——そこに、彼がいた。
 それ自体意外だったけど、彼が見せる行動力と指導力はもっと意外だった。経験者で幹部の立場にいた3年に対しても臆せずにものを言い、ともすればその人たち以上に他の委員を引っぱり、的確に指示して動かした。
 3年の一部の人は、それが気に入らなかったらしい。ある日、彼が担当だったイベントの備品が、期日近くになって未手配だったことがわかった。業者への連絡については彼に一任されていたけど、その後同じ業者に連絡をしていた3年の一人が『ついでにやっとくよ』と引き受けていたのを、私はたまたま見聞きしていた。
 だから後日、手配されていなかったと聞いた時には耳を疑ったし、当の3年が彼を批難したのにはもっと信じられない思いだった。他の数人、その3年と仲の良かった人たちが批難に便乗していたところからすると、意図的に連絡を怠ったのは明らかだった。
 私は思わず話に割って入り、見聞きしたことを説明した。最初は疑いの目も向けられたけど、何度尋ねられてもぶれることのなかった私の証言と、彼自身の普段の態度と得ていた信頼が、最終的な責任は件の3年にあると認めさせた。
 その日の打ち合わせの後、彼は私をお茶に誘った。
 『ありがとう、味方してくれて。助かった』
 『そんな、大げさに言われることじゃないよ。たまたま聞いてたからおかしいって思っただけで。あの人、ずっとあなたに反発してたじゃない?』
 『うん、気づいてはいたけど。まさかああいう意趣返しされるとは思ってなかったから、ちょっと焦った』
 どんな問題が起きても冷静に対処していた彼でも焦ることがあるのか、とまた意外に思った。そう口に出したら苦笑された。
 『そりゃあるよ。とにかく、今日はほんとありがとう』
 2回目の「ありがとう」は、目を見張るような笑顔付きだった。そんなふうに鮮やかに笑う人を私はそれまで知らなかった。大学祭に先んじて、私と彼との恋は始まったのである。
 高校までの間にも付き合った人はいる。けれどほとんどのことは彼とが初めてだった。家へ行ったのも、泊りがけで旅行したのも、体を重ねたのも。お互い生真面目だったから羽目をはずすことはなかったけど、どんな時も夢中だった恋。一緒にいることが楽しくて幸せで、何があってもこの気持ちは変わらないと心の底から信じていた。彼も、その頃は同じように感じてくれていたと思う。
 ——大学を卒業した春、就職の決まらなかった私は3年目の就活を始めた。彼は、就職先で地方に配属され、6月には引っ越すことになっていた。
 『なかなか合う靴がないって言ってたよな。これ、どう?』