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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
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天上万華鏡 ~現世編~

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 あごにバイオリンを挟み、ゆっくりと演奏し始めた。まずはリクエスト通りシューベルトだった。野バラの明るい雰囲気から一転、叙情的なセレナーデに移る。次いでバッハのG線上のアリアと途切れなく演奏していった。
 春江のいる世界は現世でありながら、霊的な法則に縛られる。幽体が奏でる音色には、その存在の気持ちや人柄が乗る。春江の音楽は情熱的でありながら、人を包み込む温かさがあった。時には悲しみに溢れ、かと思えば、力強く立ち上がる。
 春江は無言で訴えていた。抑えきれない思いを。ほとばしる情熱を。
 仁木は今更ながら春江の輝きを目の当たりにした。春江は音楽を奏でることにより輝きを増す。瞳の奥に輝く光をより溢れさせることができる。バイオリンを与えてよかったとしみじみと思うのであった。
 春江はシューベルトやバッハ、チャイコフスキーなど一通り弾いた後、ついにあの曲の前奏に入った。
「埴生の宿」である。
 途中で何かに気付いたかのように、はっとして手を止めた。
「仁木さん。埴生の宿をご存じでしょ? 歌いませんか?」
 仁木は困った顔をしながら返答する。
「いえ……歌は……ちょっと……」
「いいじゃないですか。折角ここに来たんですから……記念ですよ。」
 いつも押しの弱い春江には滅多にない積極的な言葉だった。それ程、仁木に歌って欲しかったのである。それを仁木も察してか、苦手だと言いながらも歌おうと決心した。
「一回だけですよ」
「はい。でもきっと二曲目も歌いたくなりますよ。だって音楽は楽しいものですから」
 そう言うと即座に演奏し始めた。それに合わせ仁木も歌った。

「はにゅうの宿も 我が宿 玉の装ひ うらやまじ
 のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友
 おお 我が宿よ たのしとも たのもしや 」

 一番を歌い終えた頃、周りを見ると、無感情に歩いていた異形なる者達が足を止め二人の音楽を聴いている。
 仁木は驚きを隠せなかった。これまで人に害を加えることしか興味を示さなかった者達が、自分たちの音楽に酔っている。仁木にとって初めて見る光景だった。
 そう思っているうちに、間奏が終わり、二番に入る。

「ふみ読む窓も 我が窓 るりの床も うらやまじ
 清らなりや 秋のよわ 月はあるじ むしは友
 おお 我が窓よ たのしとも たのもしや 」

 二番を歌い終え、春江の伴奏も終わった。ここでやっと春江は演奏をやめた。
 春江は改めて周りを見て驚いた。異形なる者達が、穏やかに揺れながら春江の周りを漂っているのである。
 ひとときの静寂。その後溢れんばかりの拍手に包まれた。
 あの異形なる者達が喝采を送っている。精神を病んで、人としての尊厳を失い、ただ絶望の淵を漂うことしかできなかった者達が、安らぎの笑みを浮かべながら心の奥から拍手をする。とてもあり得ないことだった。
 春江はこの光景を目の当たりにして、どう反応してよいのか分からず、ただ何度もお辞儀をするしかなかった。仁木も呆然と立ちつくし、目の前の奇跡をただ眺めるしかなかった。
 なおも喝采がやまない。
 春江は恍惚とさせながらも、更に演奏して、異形なる者達を満足させなければならないという思いに至った。
「もう一回、埴生の宿を演奏しますから。待ってくださいね」
 春江は急いで演奏の準備を始める。松ヤニを弓にこすりつけ、滑りを確認する。
「え? また歌うんですか?」
 仁木にとって、異形なる者達を魅了させたという満足感は確かにあったが、苦手な歌をこれ以上歌うことには抵抗があった。
「はい。だってこんなに喜んでもらえたんですもの」
 春江の満面の笑みを見ると、歌わないと言えない。仁木は苦笑いをしながら、春江の顔を眺めた。
「ありがとうございます。仁木さん」
 そう言うと、演奏の準備にかかった。先程は、十分にできなかった調弦をする。それで何度か音を出した後、仁木の方を向き、準備が整ったという合図をした。仁木もその合図を受け取り、必要以上に緊張した面持ちで、首を縦に振った。
 春江の前奏が始まると、さっきまでの歓声がピタッと止み、辺りは静寂に包まれた。
 歌の一番が始まり、仁木の出番が始まった。先程と同様に、異形なる者達は穏やかに揺れながら春江の周りを漂った。
 春江は気分をよくして、先ほどの伴奏にアレンジを加え、より情熱的なものに変えていった。仁木はその変化を感じ取り、戸惑いながらも気持ちを高めていった。
 すると、周りを漂っていた異形なる者達の動きが変わってきた。漂っていただけなのに、踊りのようなステップが加わった。体は輝き、姿までも変わってきた。異形の姿だったのが、次第にまともな姿に変化していく。異形なる者達のうち、水死霊については、特にその変化が顕著になった。
 数体は既に異形ではなく、高貴な姿になっている。醜かったその姿は、美しくもあり、ほれぼれとするものだった。春江は、その変化に気付くことなく自分の演奏に没頭した。
 暫くすると、空の一点に光が差した。春江には見覚えのある光だった。
――――天使様だ……
 その光に気付いた春江は演奏をやめてしまった。伴奏が止んだことを不思議に思った仁木は、春江が見ている先に気付き、状況を把握した。春江は、憑依霊のことを思いだし、あの凄惨な場面が再現されるのかと不安に思った。
「また天使様がこの方達を地獄に?」
「いえ、違うと思いますよ。ほら、見てください。ジュネリングが光っているでしょ?」
「本当だ……」
 数体の霊のジュネリングが発光している。ジュネリングの発光は成仏の証。因果関係は分からないが、結果として、春江と仁木の演奏を切っ掛けとして成仏できる準備が整ったことになる。しかし、どうしてその準備が整ったのか二人は理解できずにいた。
「罰を与えるのではないようです。……でも、どうしてこの瞬間に……」
 光は例の如く六芒星になり、その周りが円で囲まれ、円盤状になった六芒星が回転することで空間を切り、降りてきた。しかし、憑依霊を断罪したロンが降りてきた六芒星よりも二回り程大きいものだった。直径が六メートル程もある。
 六芒星が降りてきた。しかし、見えてきたのは、天使の足ではなかった。何か機械のようなものである。四つのゴム状の足があり、その足を繋げるような形で金属製のボディがある。
 車である。
 銀色のスポーツカーに天使が乗っていた。ロンが着ていた服に似ていたが、その色は緑色だった。やはり天使のトレードマークである羽根が背中にある。この天使は、憑依霊を断罪したロンとは違い、東洋系の顔立ちをしていた。
 春江は車を見たことがあるが、天使が乗っているようなものではなかった。天使が乗っている車は、流線型のフォルムで、その当時にはない形であった。未来の車を目の当たりにして春江は大きく口を開けるしかなかった。そして、これから何が起こるのか固唾をのんで見守っていた。
「春江さん? これから起こることは、我々が目指す道でもあります。よく見ておいてくださいね」