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楽園の涯

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 出逢った頃ショートだった髪は、いつの間にかボブになっていた。色だけは、今も変わらない。何が変わったのかと、彼は時々考える。彼女の変化、彼自身の変化、二人の関係の変化、おかれた状況の変化。
 「成長」と言うにはおこがましい、微小な変化をたくさん積み重ねて、ふと気がついた時には戻れないほどの変化を遂げている。そういう、ものなのかもしれない。
 髪が伸びた、背が伸びた、痩せた、太った、年をとった、呼び方が変わった――そういう変化を、時々わざと意識した。彼女は、それに気付いているのだろうか、と。


「あのね、世の中にはどうやったって仕方のないクズはいるわ。自分の子供すら愛せない親もね」
 顔を上げないまま、世間話の続きのように、何でもない事のように言われた言葉に俺は顔を強張らせた。目を閉じて、出来る限り表情を殺す。
「何か、精神的な欠陥があるのかもしれないし、自分がそう育てられなかったからかもしれない。……でも、そんなの関係ないでしょ」
 そこでようやく書類から顔をあげて、伊織は俺の方を見た。射抜くような視線にいたたまれなくなって、俺は視線を床へ落とす。
「英二、そんなクズのために、アナタまでクズになる必要はないのよ?」
 黙ったまま俺が答えないと、彼女は軽そうな眼鏡を外して彼の方を見据えた。
「そこで引きずられてクズになったらアナタの負けなんだから」
 小さく息を吐き出して、伊織は机に顔を戻した。
「……まあ、人生に勝ち敗けもないけどね。でもどうせなるなら、勝者になりなさい」
 机の上に放り出してあるボールペンを片手で取り上げ、くるくると回しながら、彼女は先を続ける。
「人生の年長者として言うわ。太陽の下を堂々と歩けなくなるようなこと、後で確実に後悔するのが解りきってること、この二つだけはしない方がいいわね」
 くるり、くるり、とまだペンは規則的に回っていた。彼女の言葉と一緒に、回る。
「他人に迷惑をかけないで生きられるようになったら一人前よ。十八歳までは援助してあげる。だから、頑張りなさい」
 その時、何かを言わなければ、と思ったが、言葉は形にならなかった。ただ暗闇の中、遠くに見える光のように、ぼんやりとではあるが確かに見えた。暗闇の中、遠くの先で光への扉が開くように。緩んだ気持ちを引き締めるように、俺は奥歯をきつく噛み締めた。
「……泣かないでよ」
 言われてから、暖かい滴が頬を流れていることに気付いた。ようやくわかったのだ。彼女の言葉がいつでも優しいことに。言葉面とは逆に、甘えていいと、泣いてもいいと言っていたことに。
「ありがとう」
「会話、かみあってないわよ」
 まるでそれがごく自然のことのように、彼女は自分のハンカチを差し出した。黙って手を伸ばし、俺の涙を拭う。きちんとアイロンのかけられたハンカチからは、ほのかに香水の香りがした。その香りに、また涙腺が緩む。
「俺、この家出るよ」
「急にどうしたの?」
 渡されたハンカチで顔を押さえたまま、俺は答えた。
「家に帰る。親父の言いなりになるわけじゃないけど、兄貴がやったみたいに、あと二年耐えてみる」
 もう涙が止まったことを確認してから、顔をあげた。少しだけ目線の低い、彼女を見返す。
「二年間で、アイツに対抗できる力を付ける。腕力をつけるんじゃなくて、大人に……なる」
 彼女はまだきょとんとしたまま俺をみていた。薄い色の瞳に俺の姿が映る。その先は、少し言いづらかった。
「……だから高校卒業したら、ここに戻ってきてもいい?」
 そう言ってから、少し間があった。彼女の動きが少し止まって、そして、淡く微笑む。
「当たり前でしょう」
「よかった」
 その時は、つい彼女につられて俺も微笑んでいた。
「最後に、キスしてもいい?」
 伊織は再び一瞬驚いたように動きを止めてから、破顔した。
「いいわよ」
 あわく微笑んで、彼女は俺を見上げたまま目を閉じる。しばらく迷って、俺は軽く左のまぶたに口づけた。
「……まぶたでいいの?」
「今度会ったときに、とっておく」
 照れ隠しで無表情なまま答えても、彼女はまだ微笑んだまま俺を見つめていた。
「じゃあ、楽しみにしてるわね」
 その次の日に俺は彼女の家を出て、実家へ帰った。

作品名:楽園の涯 作家名:名村圭