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楽園の涯

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 結局彼女と過ごした時間は三ヶ月に満たなかったが、今までの俺の人生の中で一番価値のあった、一番長い三ヶ月だった。
 たくさんの話をした。くだらない話も、真剣な話も、他愛もないことも、重要なことも。他人とあんなに喋ったのは、後にも先にもあの時だけだろう、と後からは思う。
 彼女は、ただでさえ子供だった俺の話を馬鹿にせず聞いて、そして、いつも真面目に答えてくれた。親父が認めなかった俺の存在を、認めてくれた。
 それだけで、十分だった。
 それだけで、強くなれた気がした。
 そういう目に見えない究極のシェルターを彼女が俺にくれたのは、彼女自身の生い立ちの所為や俺の境遇への同情だったかもしれないけど、それでも、当時は必要な物だった。
 見えない大きな何かに、対抗するために。
 思い通りにならない沢山のことに、耐えていくために。
 そしていつか、正面からうち破るための、力をつけるために。



 持たされたままだった鍵を鍵穴にそっと差し込むと、それは滑らかに回って扉が開いた。二年ぶりに触れる扉はひんやりとしていて、冷たい。開けた先には時間の経過を感じさせない、変わらない空気と変わらない空間が目の前に広がった。履いていた革靴を揃えて脱いで玄関から上がると、やはり相変わらずで、部屋の中には人の気配が無くどこか殺伐とした印象があった。
 事務所を覗くが、彼女の姿はない。時計を見ると、午後三時過ぎだった。この時間は大抵、彼女は寝ている。そんな事を思い出して、俺は思わず笑ってしまう。
 事務所の奥の応接間に入る。しかし、いつものソファに彼女はいなかった。さらに奥にある螺旋階段を上って、住居スペースに俺は入った。客間を覗き、彼女の部屋を覗くが、やはり姿はない。リビングに入って、ようやくソファの上に彼女を見つけた。死んだように眠っていて、動かない。白い横顔を、俺は黙ってしばらく見つめていた。
「伊織」
 小さく、一度、名前を呼ぶと、緊張で声が掠れているのが解った。一つ咳払いして、もう一度、名前を呼ぶ。
「伊織」
 しかし、やはり返事はなかった。少し不安になって顔を近づけると、微かに寝息が感じられた。安堵で、少し顔が緩む。
「ただいま」
 相変わらずの寝顔にそう呟いて、俺は彼女にそっとキスをした。軽く唇が触れて、そして、すぐに離れる。少し呻いてからゆっくりと目を開ける彼女に、出来る限り笑顔を作って、俺はもう一度言った。
「ただいま」
 一瞬、驚いたように彼女は動きを止めた。そして俺を見てすぐに、しかしゆっくりと、まるで花が咲くような鮮やかさでにっこりと笑う。
「おかえりなさい」

 これもまた、始まり。
作品名:楽園の涯 作家名:名村圭