キャンバスの中の遊戯
その微笑みはどこまでも純粋な笑みだった。それが善であろうと、悪であろうと。
「おはよう。今日は小林さんもいるんだね」
「おはよう……。そ、今日中に全体を仕上げたいからね」
いつもの通り挨拶を返しながら、美幸はさっさと美術室の中を横切る。そうして昨日、イーゼルに立て掛けたままの絵の前に立ち、ぼうやりとそれを眺めた。
そこには、八割方色を付けた絵がある。おそらく今から続きを描けば、放課後には細かい修正などに入れる心積もりだった。
長袖のブラウスをまくって、どっかりと椅子に座り込む。そうして、古びた木の箱から、絵筆やらパレットやらを取り出していく。
ふと気が付くと、上履きが床にすれる音がした。
「お、すごいなぁ……」
一度後ろに視線を送ると、秋が美幸のすぐ後ろに立って、絵に視線を注いでいるようだった。
「そうでしょ。力作」
「ふふ。小林さんって、美大志望?」
「一応ね」
短い言葉を交わした後も、秋はまだそこにいて、絵に視線を注いでいるようだった。いつでも絵を描ける準備を整えた美幸は、秋へと振り返る。
秋は一度美幸へと視線を落として、また絵へと視線を戻した。そうして、感心したような、そんなため息を漏らした。
「赤を使ってるからかな。とても激しいイメージだね」
「そう。らしくないでしょ?」
美幸はこの前の茜との会話を思い出しながら、苦笑した。秋も同意してくれると思っていたのだ。
だが秋は、笑わなかったし、そうだね、とも言わなかった。
彼は意外そうな表情を美幸に向けると、ゆっくりと首を横に振る。
「そうかな? とても美幸さんらしいと思うよ。色使いとか、特にね」
その時、美幸はきっと表情が不自然に固まってしまった、という自覚があった。秋の表情は、読めない。
どこまでもその透明な視線。真摯な、真剣な眼差し。
秋はふにゃ、と表情を崩して笑うと、再び自分の絵へと戻っていった。再び上履きがすれる音がして、美幸はようやく我に返る。
凍りついた脳内に、必死に動けと命令しながら、美幸は絵筆を手に取った。赤色をパレットに出しながら、混乱した頭がひとつの事を理解する。
今日はどうやら、長い一日になりそうだという事を。
不自然に意識しているせいか、不気味なほどいつも通りに時間は流れ落ちていた。朝のホームルームも、一時間目の数学も。二時間目も三時間目も。
作品名:キャンバスの中の遊戯 作家名:志水