さよなら、赤川先生
ノストラダムスの終わらない旅(in 1543)
地中海は青く、陽光を受けて水銀を散らしたようにぎらぎらと光を放っていた。欧州中が黒死病の撒き散らす死臭に覆われていても、この島だけは違う。街は嘗ての大ギリシャの残り香を芳醇に湛え、温暖な気候の所為か民は皆陽気で率直だ。
それに女の子もかわいいしね……。街で一等豪華な宿の部屋から海を眺めながら、ノートルダムは思った。これで、余計な厄介事がなければ思い切り満喫できるんだけど。彼は執筆中の『予兆《プレサージュ》』が風で飛ばないように重しを乗せ、バルコニーへ出る。潮の香りを孕んだ西風が彼の豊かな顎髭を揺らした。
とんとん。
部屋のドアがノックされて、間延びしたソプラノの声が聞こえる。
「先生、入っていいですかぁ?」
シャヴィニーだ。ノートルダムはときめいた。この島の女の子達は確かにかわいいけど、シャヴィニーにはかなわない。
「鍵は掛かってないよ」
彼が入室を許すと、シャヴィニーは小走りでノートルダムの隣りにやってきて袖を引いた。
「もう、何やってるんですかぁ。トルシエさんがお待ちかねですよぉ」
「ああ、もう準備できてるんだけどさ……」
はあ。ノートルダムはため息を吐いた。この娘はどうして何を言ってもおねだりしてるように聞こえるんだろう? それに、どうしてこんなに俺好みの胸の大きさをしてるんだろう? シャヴィニーは背が低い。その薄衣の襟元から、彼女の程良くふくらんだ乳房の一部が覗いていた。しかし、ノートルダムはそれを喜ぶわけにはいかない。
「シャヴィニー」
「何ですかぁ?」
「その格好は何だ。そんなに薄着してたら、君が女だって事がばれちゃうじゃないか」
本来、シャヴィニーとは男の名だ。一応、彼女は男って事になっている。そう乳房をぽいんぽいんさせて歩かれては困るのだ。特に、トルシエには絶対にばれてはいけない。もちろん永遠に騙し続ける事は出来ないだろう。しかし今はまだ、打ち明ける時期ではないのだ……。
「でもぉ」とシャヴィニー。
「なんだ」
「とっくにばれてると思うんですけどぉ……」
と、桜桃色の唇をとがらせる。その黒目がちな瞳は潤み、くせっ毛の長い黒髪が、白い首筋で快活そうにはねている。そりゃそうだ。こりゃ完璧に女だね。しかもかわいい。
「……ま、こっちが必死で努力してれば向こうだって『お前、ほんとは女だろ?』とか言えない空気になるんだよ。暗黙の了解っていうかさ。わかった?」
「はぁい……。それじゃ先生、行きましょー」
とドアの方へ駆けていくシャヴィニーの小振りなヒップが半ズボンの布越しに揺れて、ノートルダムの中で獣が目を覚ました。獣は言った。許されるんじゃないかな。これが最後になるかもしれないんだし。その通りだとノートルダムも思った。
「ちょっと待った」
ノートルダムはシャヴィニーを呼び止めて、ベッドに座らせた。彼も隣りに座り、左腕で彼女の肩を抱き、右手はなめらかな太股をゆっくりと撫でる。
「な、何するんですかぁ」
シャヴィニーの頬にさっと赤みが差した。これから何をするか、分からないわけはあるまい。この時代、十五と言ったら立派な大人の女だ。
「嫌?」とノートルダム。
「嫌じゃ、ないけどぉ……」
と言ったシャヴィニーの言葉は、最後まで発音されなかった。ノートルダムの荒れた唇がシャヴィニーのそれを塞いだからだった。
ノートルダムとシャヴィニーが一階の酒場に降りていくと、トルシエは葡萄酒の杯をぐいっと飲み干しているところだった。彼は二人に気づくと、嫌味に口の端を上げた。
「おう、お二人さん。遅かったじゃねえか。ノートルダムよ、お前さん遅漏なんじゃねえか?」
「やめないかトルシエ。自分が何を言ってるか分かってるのか?」
「そうですよぉ、ボク達そんなんじゃないですぅ」
「それじゃシャヴィニー、聞くけどな、お前、その首筋のキスマークはなんだ?」
「えっ……や、やだっ」首を隠しながら、シャヴィニーはノートルダムを見た。ノートルダムは力無く首を振っていた。
「嘘だよ」トルシエは肩をすくめてバーテンを呼んだ。「お代だ。釣りは要らねえ」
*
ノートルダム、トルシエ、シャヴィニーの一行は、草原を突っ切る石畳の道を歩いていた。行く手には、白亜の神殿が凛と聳えている。セゲスタ、セリヌンテ、アグリジェント、シラクーザ。この島には、女神アテネを祭った古代ギリシャの神殿が、キリスト教支配下の今もいくつも残っている。もっともアテネ像は皆仕切り板で隠され、もう一人の処女女神、マリアに置き換えられてしまっているのだが。とにかく、先に見える神殿こそがノートルダム達の目的地だった。家を捨て故郷を捨て、医者や占星術師としての、あるいはサッカーの名監督としての地位をも捨てて、断固たる決意のもとに目指す場所。
不意に一行の足音が二人分に減った。ノートルダムとトルシエは立ち止まると、数歩後ろで立ち止まっているシャヴィニーを振り返った。
「どうしたよ、シャヴィニー」
トルシエが声をかけても、うつむいたまま動かない。二人は顔を見合わせ、シャヴィニーの顔をのぞき込んだ。
「シャヴィニー、具合でも悪い?」
「それとも、今になって怖じ気づいちまったか?」
二人は一瞬びっくりして、その後まあ無理もないなと思い直した。シャヴィニーの大きな瞳から、夏の夕立みたいな大粒の涙がぼたぼたと落ちていた。
「……れないよぉ」蚊の鳴くような声が聞こえた。「ボク、やっぱり信じられないよぉ。アンゴルモアの大王なんて、本当にいるの?」
トルシエは天を仰いだ。雲のない、深く透明な青空だった。次に生まれてくるときは、鳥ってのも悪くねえな。
ノートルダムは静かに目を閉じた。……いつかは訊かれると思っていた。本当にいるの? って。そんなこと俺に訊かれたって分からないんだけどな。でも、分かっている事もある。だから俺たちはここにいるんだ。
「百歩譲ってアンゴルモアの大王がいるとしてもいいよぉ。でもぉ、その人今までに何か悪い事したのぉ? ボクはそんな話聞いた事ないし、仮にその人が有害でも……」
「シャヴィニー」
「どうして先生なのよぉ? どうして先生が死ななきゃいけないのぉ?」
ノートルダムはその大きな手のひらをシャヴィニーの頭に乗せた。
「先生……」
「いいかい、シャヴィニー。誰かがやらなきゃならないんだ」
「でも……先生の予言、まだ完成してないしぃ……」
「ああ、そうだな」でもな、とノートルダムは微笑んだ。「俺が死んでも、誰かが書くさ。何かにふさわしい人間というのはきちんと然るべき場所にいるものなんだ。俺に予言を書かせていた何かは、必ず誰か別の人間に宿って仕事をさせる。これは確かだ」
「でも……でもボク……」
シャヴィニーはもう、ノートルダムの腕の中で泣きじゃくる事しかできなかった。彼に抱かれると、長い髭が顔に当たってくすぐったかった。髭は干し草の匂いがした。それと混じってほんの少しだけ、今朝のベッドの中の淫靡な匂いも残っていた。そして彼女はノートルダムが自分の体の中に残したものの大きさを思った。
*