さよなら、赤川先生
あたしは出来なかった。
ハルキが見せてくれた貯水タンクの写真がいけなかったのは気づいていた。別に貯水タンクが悪い訳じゃない。ハルキも悪くない。屋上というイメージが良くないんだ。そのせいで、このところずっと忘れていた、思い出したくもないものを思い出してしまった。
「今日もよろしくね」
あいつの声。締まりのない顔。高校の、屋上で。あたしは両腕を二人の男に極められている。あいつの学ランの股間には赤黒い性器が屹立して脈打つ。ほら、しゃがみな、よ。そういってあいつがあたしの鳩尾に拳をめり込ませる。あたしは息ができなくなって上体を曲げる。目の前にあいつの汚い性器がある。唾を吐きかけると、後ろの二人が大きな声で怒鳴ってあたしをコンクリートの地面に押しつける。あいつが、やっちゃっていいよ、と言い、あたしの両足は後ろから大きく開かれる。制服の下に下着は着けていない。暴れて抵抗する間もなく、あたしの中に入り込んでくる。痛みは感じなかった。気が付くと、またあいつがあたしの口に汚いものを押しつけていた。いい加減にしろよと思って噛みついてやったけど、あいつが咄嗟に腰をひいたから噛み千切る事は出来なかった。すると今度は逆にあいつがサッカーボールでも蹴るように右足を後ろに振りかぶって、あたしの顔面にたたきつけた。瞬間、真っ暗になって、意識が戻るとあたしの顔の半分は熱いコンクリートの上の、血だまりに浸かっていた。おい、顔見せろよ。後ろから貫いている男が前髪をつかんであたしの顔を上げると、二発目の蹴りが飛んできた。今度は気を失わなかった。口の中にあふれていた血が喉に流れて激しく咳き込む。その拍子に、あたしの口から何か白いかけらが血だまりにぽちゃんと落ちる。それが自分の前歯だと分かって、あああたしは殺されるんだと思った。その時だった。
りん。
地獄があるならここだって、ずっと思ってた。世界に光なんてないんだって。真っ暗な世界であたしは、涙がこぼれないように固く目を閉じて、嗚咽が響かないように歯を食いしばったままで、まだなの? まだ終わらないの? って、泣きながら必死で走っていたんだ。暗闇に伸ばしたあたしの手に、anohitoがそっと触れてくれるまで。
如月くんと再会したのは、そんなこんなでsaiteiの気分の時だった。あたしはmushakusyaした時はいつもそうするように、公園の遊歩道を当てもなく往復していた。苛ついたまま早足で歩いていると、だんだん疲れてくる。疲れてくるといろんな事がどうだって良くなる。お腹もすいてくる。そうしたら家に帰って甘いものでも食べて、二十時間ほど眠るととりあえずあたしの精神衛生は最悪の状態を回避できる。なんかあたしビョーキだなって時々思うけど、それしか方法がない。
その日も五十往復ほどして、完全に疲れ切ってベンチにぐったりしていると不意に暖かなものがあたしの首を包んだ。マフラーだった。あたしがびっくりしていると隣りに如月くんが座った。
「そんな薄着で外にいたら風邪をひきますよ。ちなみにそれ、僕が編んだマフラーです」
『いろんな事がどうだっていい』状態に突入していたあたしはマフラーも如月くんもどうだって良くて、「ああ、まあね」と意味のつながらない生返事を返した。
「本当は先生にと思って編み始めたんですけどね。あの人は毛糸が嫌いなんです、そういえば」
「先生?」
「ああ、僕の雇い主の事です」
「大学の教授とか医者とかなの?」
「いえ。一応、作家です」
「へえ」
「みゆきさんもきっと知ってますよ。赤川JIROっていうんです」
…………………………………………………え?
あたしの時間は止まった。震える声で聞き返す。
「今、何て、言ったの?」
「赤川JIROです。やっぱり深雪さんもお嫌いですか」
A
KA
GA
WA!
「会わせて! その人に会わせて!」
あたしは疲れも忘れて猛然と立ち上がり、押し倒しかねない勢いで如月くんに掴みかかった。
「出来ません」
「どうして! anohitoはあたしにとって大事な人なのよ! お願い、会わせて!」
狂ったように大きな声を出すあたしに、彼は落ち着き払って、でもとても切なそうな顔で答えた。
「僕にも……先生がどこにいるか分からないんです」
あたしは如月くんの顔を見る。静かな対峙が続いた後で、彼があたしの頬に触れた。
「泣いてるんですか?」